四国遍礼道指南増補大成
 
三十七番・五社

 {東向き}高岡郡仁井田宮内村。五社神社の本地仏本尊は五尊で、中尊が阿弥陀如来、右に薬師如来と地蔵菩薩、左が観音菩薩と不道明王。{いずれも秘仏。空海作だという。}別当は岩本寺で、十余町離れた窪川の町にある。
 詠歌「六つの塵 五つの社表して 深き仁井田の神の楽しみ」
 足摺まで二十一里。窪川村{しももと七郎兵衛が宿を貸してくれる。このほかにも宿を貸す人がある。}・岡崎の古市川。坂がある。峯ノ上村。片坂を下る。市の瀬村・立花川村・拳ノ川村・界名村・小黒川村・不破原村。この間に坂がある。熊井村。この間に、くまこえ坂。藤縄村・白石・中津野村・佐賀浦町。ここまで五社から六里{市の瀬から三里}。伊与喜谷と呼ばれる山路には、谷川が多い。白浜村。この間に灘、峯坂がある。伊田村{弥兵衛をはじめ宿を貸してくれる人がいる。村から七八町離れている。}。有井川村{ありい庄司の石塔がある。}。川口村・川坂・浮津村。ここから海端を行く。吹上川を渡り、干潮のときには真っ直ぐ行く。満潮のときには、右へ曲がる。入野村。蛎瀬川には引き舟がある。田野浦から七八町は浜を通る。標石がある。向かいの山鼻は、下田道。こちらは舟で渡る。少し回り道になる。出口村。この間に小川がある。竹島村。大川は舟で渡る。実崎村の天満に引き舟がある。間崎村には薬師堂がある。津蔵渕村。この間、伊豆田坂を下れば小川がある。一の瀬村佐賀浦から、ここまで八里。この村に、空海像を安置した真念庵がある。真念が、念願叶って遍路を憩わせるため建てたものだ。ここから足摺越えは七里の道程となる。ただし、篠山を通るときは、ここに荷物を預け、足摺に詣でた後で戻り、先に進む。月山を通るときは、荷物を持っていく。{初めて遍路をするときには、篠山を通ると言い伝えられている。篠山・月山への道は、庵で詳しく尋ねるとよい。}この間に小川が四つある。市野々村。小方村には川と標石がある。俗に四万十川と呼ばれている。増水時には下流の加江浦に渡し船がある。{加江浦の太郎左衛門はじめ宿を貸す人がいる。}増水していないときは、標石から右へ渡る。鍵掛村・久百々村。山道になっている。大岐村。この間は海辺を通る。山路に入り、以布利村には大師堂や窪川宮がある。津呂村。この間は、山道。大谷村を通って、幡多郡伊佐村へ。

・・・・・・真念庵の案内板・・・・・・・・

この地蔵菩薩は大師の御作で四国八十八ケ所御開創の砌足摺山坂の長丁場に悩む人々の為に、この地に庵を結び本尊をきざんで安置せられた霊跡で、其の后真念法師が高野山から等身大の大師尊像を背負ひ当庵に来て三十七・八・九番の中札所として草庵を結び、七里打ち戻り大師と申されましたが其の没后真念庵の名を生ずる様になりました。(当庵は通夜の便もありましたが、約二十年程前まで)今は其の跡地だけが其の昔をしのばせます。
当市野瀬地区は三度栗の本場として名高く大師御巡錫の時子供が栗を大木の下で拾っていたので一つ乞はれますと其の子供は沢山お上げしたので大師は其の可憐な心に感じて来年からはもつと木を小さくして年に三度づつ取れるようにして上げようと申され其の翌年からは二・三尺ばかりの木に一年に三度づつ実を結ぶ様になったと云ふ事であります。
現在境内に食はずの梨(と云ふものが)大師堂のそばに十本残つて居ります。梨を大へんおいしそうに食べて居る者が居たので大師は一つ乞はれますと非常に欲深い者だったので一ケも差し上げませんでした。そこでこの様な心掛けの悪い者は世にはびこつては大へんだと御思ひになつて翌年からは不美味でまつたく食べれなくなつたと云はれて居ります。三度栗と対照的に個人主義的な人間が段々多くなって居る現在社会にとつて大へん反省するべき事だとつくづく感じます。……中略……
昭和五十五年八月十五日
 真念庵の案内板から。かなり古びて所々判読不能であったが、大略を写した。平成十五年十月十日午後六時ごろ筆写。ときに庵を守っておられる女性が話し掛けられ、近く新しい案内板に換えるとの話であつた。
                                            
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