四国遍礼道指南増補大成
 
五十一番・石手寺

 {背後は山で、東向きに建っている。}温泉郡熊野山と号する。本尊は行基が作った高さ二尺五寸の薬師如来座像。この国の右衛門三郎が石を手に握り伊予守・河野家の男子として生まれ変わったことから、石手寺と呼ぶ。熊野権現を勧請し、山号とした。
 詠歌「西方を余所とは見まじ 安養の 寺に詣りて受くる十楽」
 大山寺まで二里。{少し行くと薬師堂。過ぎて河野氏の古城・湯月城がある。今は竹林になっている。外堀が残っている。次に領主の氏神社がある。麓に社家が住んでいる。ここに一遍上人の寺がある。過ぎると}道後の湯。{景行天皇以降代々の天皇が来て入浴したと、日本書紀に書いてある。推古天皇の時代には、聖徳太子も来た。源氏物語に載せる、伊予の湯桁とは、ここである。湯壺は五つある。まず、かぎ湯と呼び、普通の人は入らない。薬師如来像がある。足下から谷川のように豊かな湯が出ている。二の湯は女湯。三の湯は男湯。第四を養生湯と呼んでおり、男女の別なく入浴している。諸国から来た湯治の人たちが昼夜を問わず入っている。第五には非人や牛馬が入る。脇に玉の石と呼ぶ丸石がある。この歌に対しての歌が残っている。「伊予の湯の辺に立てる玉の石 これぞ神代の初めなりけり」。ゆげの歌「伊予は神湯の井桁は幾つ 左右は九つ 中は十六 また伊予は神湯の井桁は幾つ 数知らず 覚えず読ます 君や知らなん」。詳しくは、湯屋明王院に記録が残っている。ここには小さいが町もある。松山城下へは左に行く。少し回り道になるが、用を足すには便利な場所を通る。三津の浜まで一里。並木。湊町であり、賑やかだ。舟屋が多い。太山寺へは古三津から直進路もある。過ぎて小坂がある。}松山城下へは、ここを左へ行く。三津の浜まで一里。並木。湊町。松山へ寄らない場合は、道後から山越村を向かう。{道後からは右に行く道だ。正月十六日桜と呼ばれる、毎年この日に満開となる桜がある。寺が多く、寺町とも呼ぶ。}谷村。{室岡山という場所に堂がある。本尊は薬師如来像。遍路人が札を納めている。}安城寺村。大山寺村。本堂まで八町の場所に、惣門がある。{麓に茶屋がある。}
                                                  
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「伊予の湯桁」関連資料
 松山っ子の筆者が伊予の湯桁に関して素通りするわけにもいかないので、若干の関連資料を引く。

★風土記逸文に見えたる伊予の湯桁★

 岩波書店の日本古典文学大系「風土記」に載す伊予国逸文から道後温泉に関するカ所を引く。

伊予国風土記曰、湯郡、大穴持命、見悔恥而、宿那毘古那命欲活而、大分速見湯、自下樋持度来、以宿奈毘古奈命而漬浴者、暫【日を足に作るが同義】間有活起居、然詠曰、真暫【同上】寝哉、践健処、今在湯中石上也、凡湯之貴奇、不神世時耳於今世、染疹痾万生、為除病存身要薬也
……中略……
法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王、与恵慈法師及葛城臣、逍遙夷与村、正観神井、歎世妙験欲叙意、聊作碑文一首
惟夫、日月照於上、而不私、神井出於下、無不給、万機所以妙応、百姓所以潜扉、若乃照給無偏私、何異于寿国随華台而開合、沐神井而癒【ヤマイダレに蓼のツクリだが同義】疹、何【ゴンベンに巨だが同義】舛于落花池而化弱、窺望山岳之巖■【山に愕のツクリ】、反冀子平之能往、椿樹相覆【マダレに陰だが同義】穹窿、実想五百之張蓋、臨朝啼鳥而戯■【クチヘンに上下】、何暁乱音之聒耳、丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井、経過其下、可優遊、豈悟洪灌霄庭意与、才拙実慚七歩、後出君子、幸無嗤【クチヘンがないが同義】咲也

 また、「中略」の箇所で、大帯日子天皇(景行)と大后八坂入姫命、帯中日子天皇(仲哀)と大后息長帯姫命(神功)、碑文を書いた聖徳太子が高麗僧・恵慈および葛城臣と、岡本天皇(舒明)と皇后、そして舒明が息子の天智および天武と温泉旅行に訪れたとしている。壬申の乱に至る天智と天武の確執を考えれば、親子三人で温泉を楽しむ時もあったかと、感慨深い。また、景行は日本武尊の父、仲哀は尊の息子。七十九番札所近くの八十八(やそば)霊泉には日本武尊に纏わる伝承が残っている。どうせなら温泉も楽しめばよかったのに。
 

★和歌に見えたる伊予の湯桁★

 伊予の湯桁を詠んだ歌を、角川国歌大鑑から拾ってみる。歌集や歌人に関する情報は、同解題に拠る。
 

 名所歌よみ侍りける中に伊予の湯を   前大納言季秋

神さぶる 伊与のゆげたのそれならで 我が老いらくも数ぞしられぬ

  新葉和歌集第十七雑歌中(後醍醐帝の息・宗良親王の撰)
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 山部宿祢赤人至伊予温泉作歌一首并短歌

スメロキノ   カミノミコトノ   シキマスクニシジ  ユハシモ サハニアレドモ  シマヤマノ
皇神祖之 神乃御言乃 敷座 国之尽 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 

ヨロシキクニト コゴシキ  イヨノタカネノ   イサニハノ   オカニタタシテ
宜国跡  極此疑 伊予能高嶺乃 射狭庭乃 岡尓立而 

ウタオモヒ イフオモヒセシ ミユノウエノ   コムラヲミレバ  オミノキモ オイツギニケリ
歌思  辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 

ナクトリノ  コエモカワラズ トホキヨニ カミサビユカム  ミユキシトコロ
鳴鳥之 音毛不更  遐代尓 神在備将往 行幸処

反歌

モモシキノ   オホミヤヒトノ ニキタツニ  フナノリシケム トシノシラナク
百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為 年之不知久

  万葉集第三雑歌
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 伊与温泉にて長歌 万三 赤人

しま山の よろしき国と さねしより いよのたかねの いさにはの
山をかにたちて うたおもひ ことおもひせし みゆの衣の
むらきをみれば おほきみも

  夫木和歌抄第二十一雑部三(鎌倉後期成立。遠江の豪族・勝田長清撰)
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                       有家

伊与のゆのゆげた数は左八右は九中は十六

  六花和歌集第六雑歌上(南北朝期、時宗の曲阿撰)
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むすびても今はなにせん いよの湯の めぐる数にもあまる齢は

此比は伊与の湯げたの五百八十にかぞへて人の年を祝へり

  草根集(類題本)。備中国小田庄神戸山城主・小松康清こと正徹(1381-1459)の私家集。
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 (亡き父二位法印の)同三十三回のうたこと葉

めぐりあひぬ ふるきなみだもわきかへり いよのゆげたの かずのみのりに

  挙白集巻第九。木下長嘯子(勝俊/1569-1649)の歌文集。慶安二年刊。
  寛文十年七月刊の下河辺長流編「林葉累塵集」第十六雑歌二にも載す。
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 出湯

わきそめて名に流れこし いよのゆの よよはゆげたの数もしられじ

  芳雲和歌集雑部。享保期宮廷歌壇の指導的立場にあった武者小路実陰(1661-1738)の作品集。
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 池田基永妻の桂舟とともに、しばらく故郷へかへるべき事いできぬとて暇申しに来たるときによめる

君がゆく いよの松山年ふとも いよいよまたむ伊予の松山

  桂園一枝 花 雑歌上。香川景樹(1768-1843)の自家撰集。文政十三年初版。
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 思不言恋

わたつみの底に湧出づるいよの湯の いはぬ恋をばくむ人もなし

  桂園一枝拾遺 下 恋歌。嘉永三年初版。
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★源氏物語に見えたる伊予の湯桁★

 源氏物語の序盤「空蝉」、まだ十七歳ほどであった光源氏は人妻に横恋慕した。こともあろうに人品優れた伊予介の妻・空蝉を寝取ろうとする。空蝉は、完熟トマトの如き陽性な平安美人、とのイメージからは遠い。痩身小柄で少し疲れた、【陰のある女】であったように感じる。案外、そんなところに光源氏は惹かれたか。
 さて、光源氏は空蝉の弟を味方につけ、屋敷を覗く。空蝉は、先妻の娘・軒端と碁を打って遊んでいる。源氏から見ると空蝉の窶れた背中しか見えない。こちらを向いているのは、着衣をはだけ、ムッチリした胸を露わにした少女・軒端であった。

 (空蝉)「待ち給へや。そこは持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」
 (軒端)「いで、この度は負けたり。隅のところどころ、いでいで」と指を屈めて「十、廿、三十、四十」など数ふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。

 この夜、空蝉の弟が手引きして、源氏が夜這いする。しかし空蝉は、源氏の衣に焚き込んだ香を察知し、寝室から逃げ出す。入れ違いに源氏が忍び込むと、軒端ひとりが寝ていた。源氏は失望したが、まぁコッチでもいいやと、軒端を犯す。鬼畜である。
 続く「夕顔」で、源氏は、また別の女性を見初める。悪友・惟光に女性のことを調査させる。しかし空蝉のことも忘れられない。伊予介が任地から京都に一時帰省する。

 伊予の介のぼりぬ。まづ、いそぎ参れり。船路のしわざとて、少し黒みやつれたる旅姿いとふつつかに心づきなし。されど人も賤しからぬすぢに、かたちなど、ねびたれど、清げにて、ただならず気色よしづきてなぞありける。国の物語など申すに、「湯桁はいくつ」と問はましくおぼせど、あいなくまばゆくて、御心の中に思し出づる事もさまざまなり。物まめやかなる大人をかくおもふも、げにをこがましく、うしろめたきわざなりや。

 この後、伊予介は空蝉を任地に連れて行くと話し、源氏の心を乱れさせる。一方、空蝉は源氏を憎からず思ってはいるが、これ以上ガキの相手をする気はない。そんな連れない態度が、源氏の渇望を弥(いや)が上にも煽る。源氏は悶々とする。が、軒端に対しては、「この女は結婚しても思い通りになる」と思っている。釣り上げた魚は、既に渇望の対象ではない。軒端が結婚すると聞いても、「ふぅん」と思っただけだった。外道である。

 筆者は、実は源氏物語を好きではない。ロマンス小説が苦手なのだ。血湧き肉躍る南総里見八犬伝の方がいい。しかし、紫式部の技量には感じ入っている。源氏の横恋慕した女性の夫が伊予介であったところから、雑謡「伊予の湯桁」を小道具として持ち出す。当時の読者には、耳慣れた音楽だったろう。脳裏のBGMとなって、はち切れんばかりに生気を横溢させる利発で愛らしい軒端が登場する。【陰のある女】空蝉との違いを際立たせている。ここで「伊予の湯桁」は、源氏の中で、軒端と結びつく。伊予介の訪問を受け、この成熟した好人物に引け目を感じつつも、妻・空蝉および娘・軒端のことが思い出される。「伊予の湯桁」が、軒端の張り詰めた柔肌の感触とともに思い出される。あるいは閨で行為後、「伊予の湯桁って知ってる? 謡ってみてよ」とか何とか言ったのではないか。十六七歳の少年少女の不純異性交遊である。寝物語も可愛らしいだろう。……いや、そうではなくって、伊予国関係者に「伊予の湯桁は幾つでしたか」と訊くことは、別に湯桁が幾つであっても源氏の関知せぬことだけれども、お愛想として適切な話題だ。しかし父親の伊予介と対面しながら、妻を覗いたことや娘との交合を思い出し赤面してしまう源氏は、記憶を生々しくさせる「伊予の湯桁」を口に出せるほど、図々しくはなかった。下半身に節操のない外道な鬼畜とはいえ、まだ十七歳のお坊ちゃんなのだ。
 このようなことどもを読者に思わせる「伊予の湯桁」の使い方は、巧いと言うほかはない。
 
 ところで源氏物語に対して各種の注釈書が書かれてきた。その嚆矢であり、本居宣長や契沖が絶賛したという四辻善成(順徳院第三世の孫)の「河海抄」巻二、空蝉条を引く。

いよのゆけたもたとたとしかるましうみゆ
伊予のゆけたはいくつかしらずや かすへすや(雑芸伊予湯)
温泉記云、予州温泉者、其勝冠絶於天下、其名著聞人中矣、累々出自山頭、潺々至【シンニョウに台】于海口、中底白砂潔、四隅青岸斜、朝宗是幾許、辞海二三里、観其温泉、上下区以別焉、以率貴賤不混誑、故世上則構【テヘン】廊宇、開戸窓【片に戸なかに甫/ヨウだが同義】其裏備屏息居閑之具、下亦左山石右岸樹、其間処陰風陽日之気、由是来者無憚、浴者有便(以下依繁略之)予州あをしまの渡の湖中にあり。
湯のまはりけたのかたち七なみ七十七たん也
けたの数五百三拾九也云々

 同じく源氏物語の注釈書で、「河海抄」の誤りを正そうと希代の篤学・一条兼良が「花鳥余情」を書いた。その第三。

いよのゆけたもたどたどしかるましうみゆ
六花集に古歌とていたせり。いよのゆのゆけたの数は左八右は九中は十六。すべて三十三ありといへり。雑芸歌には、かぞへずよまず、とうたへり。又素寂(斎とも)が説には、ゆけたのかす五百三十九といへり。是等の説に相違せり。可尋決之。又いよのかみ任にある時分なり。おもしろく書侍る物ならし。いよのゆけたはかつゐしらすかぞへずよまず君ぞしるらん。此歌なり。

 また、同書には、

ゆけたはいくつととはまほしう
中河のやとりにて碁うち侍りし事をおもひいたし給へば、まはゆきやうにていよの守にはとひにくヽおもひ給ふなり
 

★歌に見えたる「伊予の湯桁」★

 京方笙の楽家である豊家本流二十二代・豊原統秋撰「體源鈔」(永正九年六月撰了)の巻十下の「風俗」として、「伊予の湯桁」が載る。

伊与湯(サウケイサイハラ)
イヨノユノ、ユケタハイクツ、イサシラスヤ、カスヱスヨマス、ヤレソヨ、ヤナヨヤ、君ソシルラウヤ、
イヨノユノ、シタシタヨリ、ワクノシライトノヤ、クル人タエメ【ママ】、ヤレソヨヤ、モノニソアリケルヤ、
イヨコヱノ、ナコヘノツヽラ、我ヒカハ、ヤウヤウヨリコ、ヤレソヨヤナヤ、シノヒシノヒニヤ、
イヨノユノ、サラハニタチテ、ミワタセバヤ、タケノコホリハ、テニトリテミユヤ、

【和漢混淆試記】
伊予の湯(雑芸催馬楽)
伊予の湯の、湯桁は幾つ、いざ知らずや、算えず読まず、やれそよやなよ+や、君ぞ知るらうや、
伊予の湯の、下より湧くの白糸や、来る人絶えず、やれそよや、ものにぞありけるや、
伊予越えの、なごへの葛、我引かば、やうやう寄り来、やれそよやなや、忍び忍びにや、
伊予の湯の、さらはに立ちて見渡せばや、たけの郡は、手にとりて見ゆや、

なご:女御おなごカ
さらは:伊狭尓波山ともいうが、未詳。皿端ととれば、上浮穴郡と温泉郡の境・皿ケ峰とも思えるが、和気郡(次項参照)に遠すぎる。皿ケ峰は、千三百メートル級の山だが、頂上が皿のように丸く平らに開けている。
たけの郡:和気郡ともいうが、未詳。
          
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