四国遍礼道指南増補大成
 
八十四番・屋嶋寺

 {山上に建っている。堂は南向き}山田郡。南面山千光院と号する。孝徳天皇の時代、天平宝字年中、唐から来た鎮真和上が登って開基したという。空海が訪れて千手千眼観音菩薩像を刻み、本尊とした。このため千手院と称する。
 詠歌「梓弓 屋島の宮に詣でつつ 祈りをかけて勇む武士」
 八栗寺まで一里。東に十町坂を下り、佐藤次信の墓。{領主が一丈四方の切石で壇を築き、上に五尺の石塔を建立した。碑も建っている。古い五輪塔もある。後小松天皇の時代、崇徳元年四月五日に、奥州から佐藤一族の僧・空信が墓に詣でて、真摯に回向した。「いたわしや 君の命を継ぎのう/次信が 印の石は衣来て」と歌えば卒塔婆が揺れ動き、「惜しむとも よも今までは長らえじ 身を捨ててこそ 名をば継ぎ伸ぶ/次信」と墓の中から聞こえてきた。屋島軍縁起に書いている。その先に先帝と女院の内裏跡が残っている。壇と呼ぶ。浦を壇ノ浦と称する。合い引きの潮が西東から満ち、南面山の麓を巡る。両側の海かは半ばほどの所で満ち合い、互いに引いていく。この入江を三町ほど渡って、那須与市の駒立て石がある。祈り石というものもある。南脇に、洲崎の堂が建っている。本尊は、空海が作った正観音菩薩像。南に惣門を構えている。次信が射倒された所がある。大夫黒と呼ばれた馬の墓も建っている。また桟敷の岡、名切水、源氏が本陣を置いた瓜生山も見える。このほか旧跡は多い。惣名を牟礼村と呼ぶ。右の惣門から八栗へ十八町行くと坂に出る。}洲崎の堂には空海作の観音像が安置されている。瓜生山は源氏が本陣を置いた所だ。惣じてこの辺を、牟礼村と呼ぶ。
             
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