四国遍礼道指南増補大成
 
八十八番・大窪寺

 {山地に建っており、堂は南向き}医王山遍照院と号する。開基は行基菩薩だと伝えられている。後に空海が復興し、本尊として高さ三尺の薬師如来座像を作り、医王山と称した。
 奥の院は、本堂から十八町上った岩窟で、本尊は阿弥陀如来と観音菩薩像。ここで空海が求聞持修行をしたという。以上が、讃岐分。
 詠歌「南無薬師 諸病なかれと願いつつ 詣れる人は大窪の寺」
 白鳥宮に参詣する人は、ここで道を尋ねて行くとよい。道筋には、拝見所もある。
 阿波の切幡寺まで五里。長野村までの一里は讃岐分。犬懸村から阿波分。犬墓村。日開谷村に番所がある。切手を改める。大窪寺からは山道で、谷川がある。切幡寺まで一里。
 この功徳をもって願う。普く一切において、我等と衆生、みな成仏道を共にすることを。
四箇国総べて八十八箇
 同 二十三カ所  阿波
   道程五十七里半三丁(四十八丁を一里とする)【一町を一〇八米として(以下同)二九八・四〇四粁】
 同 十六ケ所   土佐
   道程九十一里半(五十丁を一里とする)【四九四・一粁】
 同 二十六ケ所  伊予
   道程百十九里半(三十六丁を一里とする)【四六二・四五六粁】
 同 二十三ケ所  讃岐
   道程三十六里五丁(三十六丁を一里とする)【一四〇・五〇八粁】
道程すべて三百四里半余【一三九五・四六八粁/約一四〇〇粁】

{空海の遍路道程は四百八十八里と伝えられている。昔は横堂すべてを拝み巡り、険しい道を乗り越えて、谷深い葛屋にまで食を乞いつつ歩いたためだろう。今は空海ほど宗教的才能がないにもかかわらず、わずかに八十八カ所だけを巡拝し、大道を安楽に通ることができる時代だ。このため三百余里の道程となっている。巡礼の起源は明かでない。しかし、その功徳は経典に説かれている。素晴らしい高僧が昔錫杖を持って徘徊した場所も、現在では人馬の往来が盛んになっている。空海は唐で仏道を修め、鯨寄る辺境の浦・善知鳥が飛ぶ僻地の浜にまで、善を勧め悪を懲らした伝説の跡を残した。例えば、こんな話がある。福島・会津の貧しい者が行脚の修行僧に宿を貸した。元来が塩の乏しい土地柄だったが、何も馳走を出せない貧者は、以前に一包みだけ入手できた塩で僧をもてなそうとした。屋根裏に大切に吊っていた塩は、いつの間にかなくなっていた。旅の僧は、貧者の志を感じ、五鈷杵で加持した。すると直径八尺もある楠の株虚から塩水が湧き出て、井戸となった。井戸の底には、梵字を記した石が見えた。驚いた貧者が僧侶に素性を尋ねたところ、「四国の辺りを彷徨いている者です」と答え姿を消した。どうやら行脚僧は、空海であったらしい。里の者は、お礼をしようと皆で四国遍路に出かけた。以後、ますます井戸は盛んに塩水を出した。里人は塩水から製塩し、売り捌いた。このため耕作を怠け、収穫が上がらなくなった。かわりに領主は、製塩に税金を課した。井戸は塩水を出さなくなった。里人は税金を課されたためかと考え、とりあえず領主には猶予してもらい、十七日間の予定で、里人全員で四国遍路をするから再び塩水が湧出させてほしいと、空海に祈った。三日目、元通りに塩水が湧き出た。里人は四国遍路に赴いた。……との説話が残っている【四国遍礼功徳記】。また、二十七番・神峯寺の項で触れた唐の浜の喰わず貝の話もある。このように空海は、人に施そうとする心を愛し、吝嗇を戒め、事物に執着し凝り固まって熱した心に冷水を浴びせて正気を取り戻させる。中でも四国は、空海が生まれた場所であり、僧俗老若を問わず人々が現在でも八十八カ所の寺を巡っている。私は久しく真言宗を学んできた。空海没後八百五十年の春、それまで抱いていた念願を堪えきれず、四国遍路の道標をしようと考えた。初めて詣でる老人、西も東も分からない女性や子供にも便利なようにしようとした。筆を手にして巡礼を繰り返し、一束の原稿を書き上げた。とはいえ、読み返してみると、神妙のことを書き記した積もりだったが、疑わしい文字列が並んでいるだけだった。怪しげな私の案内では、かえって人々を迷わせることになるのではないかと、出版を思い留まった。原稿の大きさも手頃だから、瓶の蓋にして放っておいた。そうこうするうち、原稿のことを知った野口氏が、これを是とし、彫り師に命じて印刷のための版木を作った。四国辺路道指南として発行することになった。願うは、この功徳が我ら一切の衆生に普く及び、みな成仏の道を共にすること。■【山にナベに日】貞享丁卯冬十一月 宥弁・真念、謹みて申す}
               
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