四国遍礼霊場記
 
凡例
 
▼ここに載せる札所はいずれも、弘法大師空海が杖を留め、その仏性をもって影響を与えた霊場ではあるが、時が遠く隔たり当事者たちもいなくなって久しい。確かなことが分からなくなっているものが多い。今も変わらぬ自然こそ、当時のことどもを知っているではあろうが、自然は、言葉を以て人に教えてはくれない。幸いにして由来を記すものが残っている寺については、それに拠った。多くは口承であり、合理的に解釈し得ないものもあるが、手を加えずに伝わるまま記す。
 
▼寺ごとの本尊について、一般的にどのような仏性であるかなど、よく知られていることについては記さなかった。ただし、固有かつ特殊な伝承については、残らず記した。
 
▼寺の由来を記す縁起というものは、書いた人・伝えた人によって恣意が混入するものだ。聖人の言葉や正統の説からはずれた部分は、採用しなかった。
 
▼寺によっては、多少は立派な物であるかもしれないが宗教性のないものまで「霊宝」として並べ立て、衆目を集めようとするものがある。よく・ある・話、だ。このようなものに、人々の苦悩を解消する力はない。だいたい多く並べ立てられては、読む者・聞く者も、鬱陶しいだけだろう。ゆえに、そのようなものは記さなかった。ただし、仏性が具現した存在、または高い徳をもった宗教者の遺したものは、見栄えのしないものであっても、敬意をもって取り上げた。なんとなれば、序文にも「見仏供養が心を清らかにする」と書いたが、それは素晴らしい生き様をした人々の”事実”や鍛え抜かれた救済の理論を思い起こすよすがとしてであって、耳目を楽しませる調度を有り難がるためでは決してないからだ。苦しい現実の中で理想を掲げ、鍛錬・苦闘した人々の勇気ある事跡や、そういった人々に勇気を与えた理念/理論を、理屈抜きで感得するためのものならば、一本の錆びた錐(きり)ちびた箒であっても、人の心を惹き付けて止まない。そういったものは、残さず記した。
 
▼仏像や法具に限らず、実は詰まらないものであっても有り難がっている例はある。とはいえ、善良かつ愚かゆえに見分けのついていない場合は、排除すべきではない。一方で、自分では価値のないことを知りつつ、人々を騙して価値があるように思わせているものもある。両者を一緒に扱うことこそ愚かではあるが、直ちに峻別することは出来ないので、伝承する通りに記した。
 
▼奇談は、仏教に限らず神道でも常に行われている。それらが語られる社会的・心理的な背景にまで思いを至らせず、「あり得ない」と小賢しく批判して悦に入る頭の悪い儒者一派のために、この本は書かれているわけではない。
 
▼札所となっている寺は、必ずしも空海が創建したものではない。以前のものもあり、以後のものもある。偉大な人物に自らの存在を関連づけようとすることは、よく・ある・話、だ。問題のレベルは、厳密な事実関係にのみあるのではなく、それより一回り緩やかな、”信ずるに足る”範疇にこそ存在する場合もある。
 
▼八十八番の順は、いつの時代に誰が定めたか、はっきりしていない。本書では、その順番には拠らなかった。七十五番になっている誕生院善通寺を、冒頭に載せた。結局の所、空海あっての八十八カ所霊場なのだから、彼の生まれた場所を始点としたのだ。
 
▼八十八カ所のうちに数えられていないものであっても、顕著な霊跡は載せた。
 
▼文字に記すということは、現在までに伝えられているもののうち、妄想や虚偽を篩(ふるい)に掛けて落とし、残すべきもののみを残そうとする行為だ。余りに信じがたい妄説は、載せなかった。
          
順→   

現代目次  総目次  四国遍礼霊場記目次   四国遍礼道指南目次
 
 
 


100MB無料ホームページ可愛いサーバロリポップClick Here!