四国遍礼霊場記
 
▼霊鷲山鶴林寺宝珠院(二十番)
 

 
 勝浦郡にある。太古の創建だという。空海が霊を感じて登ったとき、瑞光が発し珍しい芳香が漂った。空海は精神を集中し目を凝らして見回した。老木の上に一羽の鶴がいた。翼を伸ばして何かを覆っていた。ほかの一羽が飛んでくると、それまでいた鶴はどこかへ飛び去った。交替で何かを守っていた。空海が不審に思って見ると、鶴が守っている何かから光が発していた。よく見ると、小さな仏像のようだった。取り下ろすと、地蔵菩薩の金像だった。空海は、失われることがないようにと、像のあった老木を伐って高さ三尺の地蔵菩薩像を作り、金像を納めた。立派な堂を建てて安置した。鶴林寺と名付けた。山容が、天竺の霊鷲山に似ているため、霊鷲山を山号とした。地蔵の所持三形から、院号を宝珠とした。この山は起伏多く緑深く、峰は西北に巡り麓には川が涼しく流れている。
 堂宇は地形に従って建てられ、石段を設けている。霊木や珍しい草が茂り、春は花、秋は紅葉に彩られる。怪力の人がいて、桜の名所・吉野山と紅葉流れる美しい龍田川を持ってきたのかと疑いたくなるほどだ。
 空海が伽藍を整えたとき、地面をならしていると、大木の根元で一つの小さな鐘を見つけた。形は通常の物と同じだったが、華文が普通とは違っていた。納めて寺の宝とした。
 昔、山麓に猟師がいた。日頃、山に登って殺生を業としていた。ある時、猪を射た。追うと、堂の中に入っていった。血の痕が、厨子の中へと続いていた。不審に思って本尊を見ると、胸に矢が刺さり破損していた。これを見て後悔し、髪を剃り発心して、本尊に仕えた。そのまま生涯を送った。二王門の下にある猟師塚が、昔を物語っている。本尊は、大いなる慈悲によって苦を自ら受け入れ身代わりとなる願いを抱いているので、猪の代わりに矢を受けたのだ。また、殺生を業とする猟師の罪深さを憐れみ、救済の方便として、このようにしたのだろう。人智を超えた事柄なので、分かるはずのないことなのだが。
 桓武天皇の勅願寺となってから、歴代天皇の崇敬を受けていた。寺領三千貫を与えられたという。綸旨や院宣が数通残っている。
 源頼朝は神仏を崇め、運を開いた。神社仏閣の修理を行った。この寺の尊像について聞き及んで心に留めた夜、夢に本尊が現れた。頼朝は本尊を鎌倉に運び、熱心に敬った。金の錫杖などの宝物を捧げた。生夷の庄から三千貫を割いて、永代寄進とした。錫杖は、今に残っている。
 本尊が鎌倉から戻されるとき、伊勢の神官・福井氏が阿波に渡ろうとした。急に暴風が襲い、波が荒れ狂って、舟が沈みそうになった。地蔵菩薩が現れた。舟は速やかに小松島の浦に着いた。福井氏は、どうにか命を救われた。福井氏は深く帰依し、毎年灯明料を捧げている。また、福井氏の子孫は以後、幼名に必ず鶴の字を使うようになったという。
 六角堂の六地蔵は、空海が十八町麓から砂を取り上げ一夜のうちに作ったものだ。砂を採った場所を、鶴瀬といい、今も所の人は信心深く謹み暮らしている。色々な超常現象が起こる場所だ。
 鎮守の熊野権現社は、空海が勧請した。昔は年二回の祭りを厳かに執り行っていた。山の麓にある供田を、掃除田と呼ぶ。今も名前ばかりは残っている。
 鎮守社の左に塔があった。今は壊れて跡だけが残っている。前に鶴守神祠と鐘楼が並んでいる。
 二王門の内にある荒神や三社も空海が建てた。
 本堂の上手に弁財天祠がある。像高は七寸五分。十五童子像も共に、空海が作って安置した。本坊の持仏堂の本尊は、高さ一尺三寸の羅陀山地蔵像。ひしゆかつま作。
 本堂の本尊は智証大師作の不動明王像。
 寺の南に阿伽井がある。空海が加持したもので、清水を厳かに湛えている。空海が龍神像を作って安置した。
 境内にある堂宇は七つ。本尊に仕え、国家安泰の祈りを怠ることなく勤めている。
 霊宝は、安阿弥作の阿弥陀如来像、高さ一尺二寸の覚鑁上人作・愛染明王像、空海直筆の不動明王像、空海直筆の愛染明王像、覚鑁が描いた五大尊、同じく不動明王像、大幅の唐絵涅槃像、覚鑁が描いた十三仏、真然僧直筆の御遺告、空海が作った五種の鈴。このほか多くあるが、繁雑になるので記さない。
                      
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