四国遍礼霊場記
 
 ▼本尾山朱雀院種間寺(三十四番)
 

 
 吾川郡秋山村にある。聖徳太子が天王寺を建立しようと、百済から宮大工や仏師を招いた。寺が完成し、工匠らが百済に帰る途中、舟が外洋に差し掛かったとき、逆風が荒れ狂い、舵が折れた。波は高く海水が空に降り注ぐほどだった。南へ北へと波に翻弄された。たまたま土佐国吾川郡に辿り着いた。水棲動物の餌にならずに済んだ。工匠らは滞在するうち、現在の本尊・薬師如来像を作り、故郷に帰ることを願った。すると二羽の鶴が飛来した。両翼を伸ばし、船のように工匠らを載せて、西の空へと飛び去った。人々は、薬師如来の霊異だと感じた。本尾の山頂に堂を建て、本尊を安置して、国家鎮護の押さえとした。
 その後、清和天皇の時代、粟田の関白・藤原道兼の息子・信衡が土佐に流された。その子供の信定が山の麓に堂を建て、本尊を移して安置した。参詣の人が苦労しないようにとの配慮だった。
 本尊の霊異を聞いた村上天皇が、藤原信家を勅使として派遣、種間寺に勅額を贈った。信家は大般若経一部を写して本尊に捧げようと考えた。一人の異様な雰囲気の僧侶が現れて、自分がやろうと三年間堂に籠もって六百巻を書写した。供養の場となって、僧侶は、何事があったのだろうか、姿を消した。経は六百巻とも空中に舞い上がり、暫くして落ちてきた。ことごとく白紙に戻っていた。これを白紙の般若と呼び、今も残っている。冷泉院の時代に、この白紙を送らせ代わりに大般若経一部と十六善神の絵一幅を寄越した。現在にも残り、毎年多くの僧を招いて転読し、国家の安全を願う儀式を行っている。
 寺の数百年にわたる数度の興廃は記録に残っている。現在の堂は正保三年秋、前の国主・従四位侍従兼土佐守藤原朝臣忠義が、昔と同じように本尾山の頂に堂を建て、荘厳を尽くした。本尊を安置した。霊像と霊境は互いに呼応して、改めて霊験あらたかとなった。忠義の息子・忠豊は父の遺志を継ぎ、堂を補修し鎮守社を再建した。

←逆   順→  ↑四国遍礼道指南  ↓現代  画像サムネイル 
                              
現代目次  総目次  四国遍礼霊場記目次   四国遍礼道指南目次
 
 
 


100MB無料ホームページ可愛いサーバロリポップClick Here!