四国遍礼霊場記
 
▼大積山金剛院光明寺(五十五番)
 

 
 別宮と呼ぶ。越智郡にある。三島明神である。記紀の神代巻に、生まれるときの炎で伊弉許を死に至らしめた軻遇突智を伊弉諾尊が三つに斬った一つが、大山積神であると伝える。聖武天皇の時代、天平五年に示現した。伊豆国賀茂郡、摂津国島下郡にも社がある。共に同じ神だ。三島明神社から伊豆に移ったという。治歴年中の頃、日照りのため雨乞いをしようと、伊予の国司・実綱は能因法師を招き、歌を詠ませた。能印の和歌は「天の河 苗代水にせき下せ 天下ります神ならば神」。歌を社に奉納すると、忽ちに雨が降った。歌の短冊は、宝殿に今も残っているという。
 太宰大弐・藤原佐理が任期を終え九州から京都へ帰る途中、伊予に停泊した。波風が荒れて、船を出せなくなった。夜になって夢に三島明神が現れ、社の額を佐理が書けば風はすぐに止むと告げた。額には日本惣鎮守三島大明神と書かれている。
 宮守を金剛院南光坊と呼ぶ。本尊は大通智勝如来で、三島明神の本地仏とされている。

・・・・・・・・「金葉和歌集」巻十雑歌下・・・・・・・・・・

(平)範国朝臣に具いて伊予国にまかりたりけるに、正月より三四月までいかにも雨の降らざりければ、苗代もえせで騒ぎければ、よろづ祈りけれど叶はで堪えがたかりければ、守、能因を歌よみて一宮に参らせて祈れと申ければ、参りてよめる
   能因法師
「天の川 苗代水にせきくだせ あま下ります神ならば神」

 ちなみに、空海はもとより、七十二番・曼荼羅寺の項で言及されている元杲や仁海には雨乞いの伝説が残っている。特に小野僧正・仁海は、雨僧正と称された。話は宋にも伝わり、彼の地では雨海大師と呼ばれた。当時は灌漑が重大な問題であり、雨乞いが僧侶に期待される能力の一つであったのだろう。
                   
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