四国遍礼霊場記
 
▼石清水八幡宮(五十七番)
 

 
 鎮座した年代は遠い昔で、はっきりしない。今治の南南東の海浜に、衣干という地名がある。口承伝説では、神が海から上がって、濡れた衣を干した場所だという。神は勝岡に移った。衣干の北西にある山が城南男山に似ているため、そこに移ったと豫章記に書かれている。源頼義が伊予国司となって在任している間、河野親経と協力して、伊予国内に四十九の薬師堂と八カ所の八幡を建てた。石清水八幡は、随一の社だ。緑の靄の中に清い泉がある。この泉があるため、石清水と号している。北側に長河があり、山麓には阿弥陀堂を構えている。男山の淀川や極楽寺に相当する。牛王堂や大塔の跡、そして三カ所に鳥居の跡があるところまで、男山に似ている。怪力の人が、夜中に男山を背負ってきたのかと思うほどだ。祭礼では三つの神輿を担いで、四十余町離れた東の浜・衣干に渡す。
 頼義時代に若干の領地が寄進された。能寂寺の記録に残されているという。昔から能寂寺の僧侶が、この神社に仕え、毎年の法華会や金剛般若会などのほか、諸々の神事を執り行い、国家泰平・万民豊饒を願っていた。昔は、それらの催事を行うために寄進された荘園があった。沽券が残っているという。
 麓にある阿弥陀堂の跡に清廉な僧侶が粗末な堂を建て、遍路人の宿とした。
 昔は立派な社に玉をちりばめ、水晶で作った簾を垂れて、日月の光に輝いていた。中世、火災に遭って煙と消えた。
 源頼義の嫡男・義家は、八幡大神に祈って生まれた子供であったから、八幡太郎と名付けられた。頼義は前九年の役で安倍貞任を討ち、東北地方の土着勢力に打撃を与えた。このとき相模国鎌倉に八幡宮を建てた。義家が修復を加え、頼朝が幕府を開いて氏神として崇めて鶴岡に新築移転した。
 神社に仕える寺は長福寺。今は浄寂寺である。
                     
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