四国遍礼霊場記
 
▼巨鼇【敖のしたに亀】山雲辺寺千手院(六十六番)
 

 
 山は険しく、道が奥深く巡っている。五十町登って境内に出る。堂が雲に包まれており、雲辺寺の名称が、もっともなものだと感じる。西は眼下に伊予が見え、北は中国地方の諸国を一望に見渡せる。東と南には讃岐・阿波・土佐の三国が広がる。山の根は四国に跨り、昔は四国坊と呼ばれる四つの寺があった。今では雲辺寺しか残っていない。阿波の国主が造営したものだが、昔から讃岐霊場の一つに数えられている。
 本尊は千手観音の座像で、高さは三尺三寸。脇士は不動と毘沙門天。いずれも空海の作。御影堂、千体仏堂、鎮守社、伴社、鐘楼、二王門がある。境内は緑深く、俗世から隔絶している。
 自黙道人は縁起を見たと書き残しているが、私は見たことがない。いつのことかは分からないが、閑成という丈夫がいた。鹿を射て、血の跡を辿ると堂の中へと続いていた。閑成が不審に思って本尊を見ると、像の胸に矢が当たっていた。閑成は殺生の罪を悔い、菩提心を発して出家した。仏が、朝夕に罪を重ねる閑成を憐れんで、鹿に化けたのだろう。中世、寺は火災に遭った。このとき本尊は姿を消したが、年を経て忽然と戻ってきた。
 巨鼇は、列子に「渤海の東に大壑あり。其中に蓬莱・方壺等の五山あり。居る所の人は皆、仙聖の種なり。この五山の根連たるや、尽く所なし。当に潮波に従いて、上下往来して、暫くも峙つ事を得ず。帝、西極に流れん事を恐れて、禺強に命じて、巨鰲十五をして首を挙げて、これを戴かしめ、これよりその山動かず」と。今、この山も聳えて、かの五山が浮かんでいるようだ。ゆえに巨鼇を山号としたのだろう。
 鼇は海中の大鼈。伝に云う、神霊の鼇あり。列子に鰲となす。鰲は大魚、鼇はこれたらん。

・・・・・・「列子」関連部分・・・・・・・

前略……湯又問、物有巨細乎、有脩短乎、有同異乎。革曰、渤海之東、不知幾億万里、有大壑焉、実惟無底之谷、其下無底、名曰帰墟、八紘九野之水、天漢之流、莫不注之、而無増無減焉、其中有五山焉、一曰岱輿、二曰員■【山に喬】、三曰方壺、四曰瀛州、五曰蓬莱、其山高下周旋三万里、其頂平処九千里、山之中?、相去七万里、以為隣居焉、其上台観皆金玉、其上禽獣皆純縞、珠■【王に干】之樹皆叢生、華実皆有滋味、食之皆不老不死、所居之人、皆仙聖之種、一日一夕、飛相往来者、不可数焉、而五山之根、無所連著、常随潮波、上下往還、不得■【斬に足】峙焉、仙聖毒之、訴之於帝、帝恐流於西極、失群聖之居、乃命禺彊使巨鼈十五挙首而戴之、送為三番、六万歳一交焉、五山始峙而不動……後略【列子湯問第五第一章】

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▼金毘羅権現(番外)
 

 
 山号は、象頭。遠くから眺めた山の形が、象の頭に似ているところから山号とした。松尾山金光院とも呼ばれる。前方丈・仏塔は大きく美しい。讃岐で最も壮観な建物なので、遠くの者も近くの者も参詣したいと願っている。
 金毘羅権現が鎮座した年代は、明かではない。ただ、三千年前だと言う人もある。金毘羅という名前は仏典に出てくるので、この名前が付いた年代は、仏教伝来以後のことではないだろうか。私が聞いているところでは、大物主命が天竺に行って、金毘羅と呼ばれるようになったということだ。伝教大師は神についても詳しかったが、金毘羅と三輪大神は同じだと考えた。仏典には、提婆達多が釈迦に大石を投げ付けたところ、金毘羅が受け止め釈迦を救ったと書いている。金毘羅は、祇園精舎の鎮守とされている。金毘羅権現では、今でも奇怪なことが起こるといわれている。本社の上方に、岩窟がある。ご神体が鎮座しており、漂う霊感は言葉で表現できない。
 天皇家・将軍家の崇敬が昔から篤い。徳川将軍家から三百石の領地を与えられており、奉納される物も多い。峰高く谷深く美しく、四季折々の風景は称賛に値する。近頃、幕府のブレーンである儒者・林家の父子が金毘羅から十二の名勝を選んで詩を作った。
十二境詩
   左右桜陣
呉隊の二姫笑う ■【業にオオザト】の宮に千騎の粧 花顔、国色を誇る 列対し春王を護る
【史記には兵法家・孫子が呉王に軍の要諦を尋ねられ、後宮の寵姫二人に隊伍の訓練をさせた。しかし余りの単純な命令に寵姫たちは失笑した。一度は司令官である自分の責任だと孫子は言ったが、二度目の失笑で、隊長の責任だと呉王・最愛の二人を斬った。呉王は助命を嘆願したが容れられなかった。中国の軍律には、皇帝さえ陣中にあっては軍礼を優先しなければならなかった。そうでなくては戦に負ける。現今の、現場を無視して我が儘放題の経営者は、長たる資格を有しない? 国色は、国で最高の美姫を謂う】
   後前竹囲
(美景で知られる)渭川の畝を移し得たか 湘【竹】孫貽厥の多し 百千竿の翠密なり 本末の葉は森羅
【湘竹は斑竹。貽厥は子孫】
   前池躍魚
隊を同じうして泳ぐ、其れ楽し 自ら香餌投げる無く 繞岩、往所を縦【ほしいまま】にす 活溌を囲う洋は悠たり
【活溌は魚が躍ることによる水の動き。バシャバシャと騒ぐ魚の動きを周囲の水は悠然と抱きかかえている】
   裏谷遊鹿
林に樵子【きこり】の唱うを継ぐ 山は玉川に対して静かに眠る 凹処の跫音少なく 殷々としてググと連なる
   群嶺松雪
尋常の青蓋を傾く 項刻玉龍横たう 棲鶴は其の色を失い 満山白髪生える
【青蓋は枯れていない松の葉】
   幽軒梅月   別野
起きて顔向ければ霽光開く 坐して看る疎影の巡るを 高低同一の色 知るや否や香ありて来るを
               右六首春斎作
   雲林洪鐘
近くには万車の轟きに似る 遠くには【仏具の】小磬鳴くが如し 風に伝う朝昼晩 雲樹も亦、声を含む
   石渕新浴  十月十日、祭神の事ありて、ここに禊ぎ事を修す
石淵の風俗新た 知るや詠帰人のあるを よく此の心をして清ましむ 流れに臨みて神に賽せんとす
   箸洗清漣  山中の岩上に一小池あり。十月十一日夜、以て神前に神事を修し箸をこの池に洒し阿州箸蔵寺山に納む。故に箸洗池という也。今に霊異一度ならざるをみる也
一飽に余情あり 波漣の源口に亨る 流れに漱ぎて頻りに箸を下す 荊子の情を喚起す
【陶淵明の「詠荊軻」に「燕丹善養士 志在報強■(亡のしたに口そのしたに月女凡) 招集百夫良 歳暮得荊卿 君子死知己 提剣出燕京 素驥鳴廣陌 慷慨送我行 雄髮指危冠 猛気衝長纓 飮餞易水上 四座列群英 漸離撃悲筑 宋意唱高聲 蕭蕭哀風逝 淡淡寒波生 商音更流涕 羽奏壯士驚 心知去不帰 且有後世名 登車何時顧 飛蓋入秦庭 凌■(ガンダレに萬)越萬里 逶■(施のツクリにシンニョウ)過千城 図窮事自至 豪主正■(リッシンベンに正)営 惜哉剣術疏 奇功遂不成 其人雖已没 千載有余情」がある】
   橋廊復道
人、西嶽に攀りて去る 北溟に向かうありて流る 風力は推して運ぶ無く 是に舟せざるを知るが如し
   五百長市
半千長の市に坐す 高下よく隣を成す 烟景を弄ぶ意なく 諸を沽え価を待つ人
   万農曲流  河の源たる大池は弘仁帝の代に築く所也
清波、喬岑に浮き 長流、早く霖に則す 弘仁の余りの帝沢 一畝、千金に当たる
               右六首春常作
 金毘羅は八十八カ所の内には入っていないが、景色が美しく霊験あらたかな場所であるため、遍路で寄らぬ人はない。ゆえに、紙幅を割く。また、道筋としては善通寺の近くだが、出釈迦寺の記述とつながりが悪いため、巻一の最後に載せる。

  跋題
我、雲石堂、少しく技術を挟み、学余に多く仏祖の像を尽くし、人の珍敬とす。これにより今、霊場の図も画工の手を借りず、みな自ら画を労す。本より公の草聖、世の称嘆する所なり。この書よく聖迹を讃ずる者は、あに霊場の霊宝たらざらんや。思うに書肆、梓を刻み以てこれを沽うをなすか。

貞享五年秋吉日【九月三十日に改元し元禄元年。旧暦では七八九月が秋なので、この三カ月の間に書かれたらしい】
 清浄観中宜拝書
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