四国遍礼霊場記
 
▼南面山屋島寺千光院(八十四番)
 

 
 孝徳天皇の天平宝字六年十月、唐楊州の鑑真和尚が日本の純朴さを聞いて来朝しようとしていたとき、この山に立った瑞光を遙か船中から目にした。鑑真和尚は船を寄せて、山に登った。老翁が鳩杖をついて出現した。この山は七仏説法の霊場であり、天人仙人が遊んでいる。それだけ言って老翁は姿を消した。和尚は神なびた土地であると感じ、仮に一堂を建て、持っていた普賢菩薩像や法華経・華厳経普賢行願品を納めようとした。そのとき、二聖二天十羅刹女が出現し、いつ果てるともなく次々と霊異を見せた。和尚は、ここで五十七日を過ごした。仏教普及に努め、唐招提寺を建てた後、和尚は仏舎利三粒と菩提樹の数珠を送って寄越した。
 五十年後、空海が留まり、一刻三礼して千手千眼観音像を作り、安置した。千手院と称する。

▼洲崎乃堂并次信墓(番外)
 

 
 屋島寺から東へ坂を十八町下ると、佐藤次信の墓がある。次信は、弟の忠信と共に、奥州から源義経に従った近臣であった。屋島の合戦で、源義経を狙った平教経の強弓に立ち塞がって、身代わりとなって戦死した。ちなみに、次信の首を落とそうと駆け寄った教経の小姓・菊王丸は、忠信に射倒された。慌てた教経は菊王丸の体を抱き取り撤退した。
 ここには昔から五輪塔があった。俗に伝える物語や歌などがある。かなり昔に国の太守が一丈四方の石畳を敷き、高さ五尺の碑を建てた。
 兵士から中国【南北朝時代】宋王朝初代武帝となった劉裕は、彭城に赴任したおり、前漢初代高祖に天下を取らせた軍師・張良の廟が荒れてしまっていることに気付いた。先人の徳は顕彰して初めて後世に伝えることができると言って、改築し修飾し塗り直した。
 【宋書より。ただし、この年、劉裕は主君・安帝を殺害し安帝の弟・恭帝を擁立した。後に禅譲されたが、廃帝を布団で圧し殺した】。
 劉裕とほぼ同じ時代を生きた、有名な官僚詩人・謝霊雲の従兄弟で同じく官僚詩人の謝恵連は、奇しくも劉裕から四半世紀後、彭城に赴任した。謝は墓碑も何もない古い墓を見つけた。その打ち捨てられた様子を深く悲しみ、篤い礼をもって供養した。
 【文選より。さりげなく劉裕と謝恵連を並べているところが興味深い。かたや漢帝国創業の黒幕・張良を慕い後に帝位を襲った人物、かたや最後は讒言のため刑死した謝霊運の従兄弟で名もない人たちの墓を祭った文人墨客。古い墓を復興した点では同一だが、どうやら心理的背景は極端にまで対称的であっただろう】。
 先賢の心や偉人の事績も埋もれてしまえば、どうして偲ぶことができようか。先人の苦闘に思いを巡らせ、道義を盛んにすることこそ、君子の行いである。
 所の地名を、壇と呼ぶ。近くの海を、壇ノ浦と称する。東の渚には、那須与市が馬を乗り上げた岩がある。馬の両足跡が残っている。与市は、平家の女房たちが舟上で捧げた扇の的を岸から射抜いたことで有名だ。また、的に当たるようにと与市が祈った、いのり石というものもある。南脇には洲崎の堂がある。本尊は、空海作の正観音像。これらは八十八カ所のうちではないが、巡礼の途中にあるので記しておく。
                         
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