四国遍礼霊場記
 
▼補陀洛山志度寺清浄光院(八十六番)
 

 
 行基菩薩が草創だという。本尊の材料となった木は、近江国朽木谷から流れ出たものだ。拾い上げた者に祟りがあるので、皆が次々捨て流したものだった。
 継体天皇の十一年、この浦に寄せた木を、園子尼が数珠で念じて引き上げた。推古天皇三十三年、補陀洛から観音が来訪したため、この木で今の尊像を作ったという。補陀洛を山号とした。寺号の志度は、在所の地名である。縁起には、当初は死度と書いていたという。私は縁起を見ていないので、確かなことは知らない。
 この土地を、房前浦と呼ぶらしい。門前には人々が賑わしく往来しており、背後には海浜を望む。八栗山が雲の上に聳え、真珠島が海に浮かんでいる。境内は広く、木々や泉が清らかだ。
 高堂は、閻魔王のお告げによって建てたそうだ。ゆえに本尊の観音に次いで、閻魔王を崇めている。閻魔像は、通常の形態ではなく、首が十一面観音となっていた。これは閻魔王と観音が一体であることを意味しているという。または、閻魔王が本尊を頂いているとの義を表しているともいう。いずれにせよ、閻魔王と観音の合体を表現している。
 縁起七巻と縁起図絵がある。ほかに宝物として、御衣木記一巻(兼空上人筆)玉贈玉取淡海房前行基伝記一巻(相良殿筆)白杖童子記一巻(世尊寺行房卿筆)当願暮当記一巻(兼空上人筆)阿一上人蘇生記一巻(相良正任筆)千歳童子蘇生記一巻(兼空筆)松竹童子蘇生記一巻。これらの巻物には図絵が添えられている。中でも「御衣木-」の絵は土佐将監の筆による。ほかも土佐流の絵が描かれている。
 玉贈玉取淡海房前行基伝記一巻は、次のような話だ。唐から大織冠・藤原鎌足に玉が贈られたとき、この房前浦で輸送船が暴風に遭い、玉を海に沈めてしまった。嘆いた淡海公・藤原不比等は、この浦まで来て、どうにか玉を取り戻そうと三年を過ごした。そのうち海士の娘と情を通じるようになった。海士の娘は龍の住処に潜入し、玉を取り返した。世上に広く行われている物語だ。藤原房前大臣は、自分が海女の子であることを十三歳の時に知った。後に行基菩薩を連れて、この浦を訪れた。海女のために法華八講を行った。以後毎年、十月十七日から二十三日までの間、執り行ってきた。しかし近年では寺に僧侶が少ないため、規則のみが受け継がれているらしい。堂前の石塔は、海女のために建てたものだという。
 園子尼の堂は、町の中、天野の里にある。近くの堂林は、海女が住んでいた場所。真珠島は、玉を取り返した海女を引き上げた場所だ。真珠島なる名称は、昔大きな真珠が出たことが由来だという。疑う声もある。今は、判断できない。ちなみに、不比等のために玉を取り戻した海女は、程なく死んだ。龍に追いつかれ、自らの乳房を切って、裡に玉を隠した。死を前に海女は、子供・房前を取り立てるようにと言い残した。
 行基菩薩の歌として伝わっているものがある。「潮満ちて島の数そう房前の入江入江の松の村立」。

【近江国高島郡朽木谷は「朽木の杣」として有名で、良材の産地。大日本古文書編年五巻天平宝字六年八月九日の正倉院文書「高島作所漕材注文」からして、古くから中央への材木供給地であったことが窺える。伝承では、日本仏教確立へのメルクマールとなった東大寺建立時の、材木供給地とされている。即ち、件の本尊は、日本仏教に於ける重要な聖地と材を同じくする。逆に言えば、東大寺の材を産出した(とされる)ことが、霊木の産地として朽木が名指しされる理由となっているのだろう】
                          
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