徳島県立図書館蔵書より。改行は原文の儘。改頁は一行空けとした。原則として本字を現行通用の俗体とした。仮名としての漢字(り里/せ勢/や也など)は原則として平仮名になおした。但し、「の」に関しては「乃」「之」は其の儘とした。仮名は、地文の「ミ」「ノ」「ニ」「ハ」などは片仮名の儘としたが、振り仮名は原則として平仮名になおした。振り仮名は()で括った。一つの語句に二つの振り仮名を打っている場合があるが、(/)で表記した。句読点は原文の儘。また、本文中、項目の区切りとして文頭に記されている「・」は「▼」とした。
第六巻には二丁に亘って焼け焦げがあり、各数字ずつ欠落していた。このため、伊予史談会「四国遍路記集」(伊予史談会双書第3集▼昭和五十六年八月十五日発行)によって補った。因みに、同集収録の「四国遍礼霊場記」は今回書き出した徳島県立蔵書より版が早く、瞥見した範囲でも数カ所の異同があるようであった。くだくだしくは記さず。
本文に載す漢文は、返り点、送り仮名など略し、白文とした。
筆者註は【】で示した。

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四国■【ギョウニンベンに扁】礼霊場記序
夫聖賢之垂教也逐機殊

筌蹄渙若星象浩如濤瀾
而繹厥源由則無非愍迷
方之方便也属日閲南岳

雲石闍梨撰四国霊場記
壹愍斗藪者之迷繆而秉
筆■【亂のツクリに見】縷闡揚霊場之所以
為霊謂山川之秀像設之
神宝器之霊因縁故実事

無遺余矣若行脚之客多
識之者徒致揚朱之泣且
旨波斯之珍可不愍哉由
此思之闍梨斯編非愍迷
方之老婆心邪其益莫大

焉寔可嘉尚之闍梨之檀
護某居士等謀■【カネヘンに契】梓以伝
因請予弁言予以老病堅
辞而力之不措廼強援筆
云■【山一日】

元禄二年歳次己巳仲春日
瑞応逸老沙門泊如運敞書
  于寂照堂東軒
  印 印

四国遍礼霊場記叙
夫大道杳寂逐之若逝至覚玄淡
無感不燭感之所召跨大千而咫尺
縁苟未応雖■【アシヘンに査/踏カ】跡而弗覩仏教入本
朝而降千三百年于此其間権化偉
■【サンスイに不/流】駕時交出讃揚大道敷暢神化

名区霊像比朝野山裂水開現異
瑞以盪人之情偽永為世之福田吾
弘法大師示生於讃州著烈於非常
阿土豫三州其列冽故於此四国大師
遺芳歴踪寔繁凡大師之神化土石
草木啓霊者世之所欽也既踰八百

余之歳華弥新弥高■【ニスイに食】霊風之法
慕礼其遺区祈二世之福応四国中
凡八十八区雖多隆弊与時相移者
希夷未缺■【米に耳】夫釈尊之遺跡八相之
霊塔龍窟之奐影石面之双輪等竺
土之賢■【吉吉/哲の古字】慕仰礼歴而如遇在世懐

信徹肌骨華厳経及宝積経中説信
仰遺迹功恵具善根滅罪障者不異
見仏供養於吾大師之遺烈寔有以●【難読。あるいは「也夫かな」の誤刻カ】
茲有真念者抖■【テヘンに数/斗藪】之桑門也四国遍礼者
十数回故其地理人物像刹事緒目熟心
熟前出四国指南一篇便遍礼之人雖

爾非尽諸刹之霊験本自有志諸■【ギョウニンベンに扁/遍】
記就諸刹捜索縁起迄什物記録入
嚢中蒐輯而図遺一日款弊廬要編
集於余手余也少■【サンズイに不】宕【蕩と同意】遠邦老而病
慵慢弛不堪其遍礼蹉■【アシヘンに陀のツクリ】不能無遺憾
時念起予者若有不之而之豈不随

喜乎仍勤慵及採■【テヘンに庶/拓の別体】為編尚又有
未詳者因令念与二三之同志至彼刹
々図其状示余俛仰之間若已再遊
者也遂編成名四国遍礼霊場記
四国各為一篇巻大者分上下披之則
未之人若説目於其境若之人不労

問郷人而知事緒猶如遇知旧然焉
文為世俗易見以和字而非同世之
戯弄之書始不要好語云為叙
当貞享戊辰仲秋日
高野山宝光院閑居雲石堂寂本書
             印 印

  凡例
▼区(く)々いつれも。大師遊化(け)し玉ふ霊蹤(れいじう)なると
いへとも。時遠く事さり。人かはりぬれは。さだ
かならざる事おほし。桃李(たうり)ものいはねは
誰(たれ)にかむかしをとはましや。若幸(さいはい)に縁
起(ゑんぎ)ある所はそれによれり。おほくハ口づ
から伝ふる。のミなれは。あやしき事あり
といへとも。其伝ふるまヽに書侍る
▼一寺々々乃本尊。釈迦(しやか)薬師観音のごとき
それ々々の本誓乃。世の人しれる事ハ

いま更(さら)述(のぶ)るに及はす。但其本尊の像に
付。効験(こうげん)霊感(れいかん)乃事あらは。のせすと
いふ事なし
▼凡寺々の縁起(ゑんき)書(かけ)る其人により。憶度(おくたく)私意(しい)
に引も乃あり。その編(へん)は一寺一人乃私
記(しき)にあらされは。聖語本説(ぜつ)にたがひ又ハ
道理に応(おう)ぜざる事はとらす
▼寺により霊宝(れいほう)と号(かう)し。世上の具(ぐ)数多(あまた)書
たて。人乃心目(もく)をかざり。市家の具架(ぐか)に
異(こと)ならざる事あり。世におほきわざ

なり。何ぞこれ滅罪(めつざい)生善(しやうぜん)乃勝利あらんや。
心ある人。聞(きく)もうるさからんかし。但権化
高徳(とく)乃遺具(ゆいぐ)とあるものは。錐(すい/きり)刀弊帚(へいさう/やふれほうき)と
いふともなんぞ賞(しやう)敬せざらんや。物を見て
人をおもふ心ならひ。幾度も見まほしくこそ
侍るなれハ。名(な)あるものハ。のせずといふ事なし
▼仏像法具(ぐ)にかぎらす。事々に付。世に紛
濫(ふんらん)おほし。燕石(ゑんせき)を玉とおもひ。干鼠(かんそ)を璞(はく)と
あやまつためし。むかしよりあり。若愚昧(くまい)に
してしかるものは。悪(にく)しとすべきにあらず。

若又人を賺(すか)さん為(ため)に。聖者(せいじや)に託(たく)するも
世にあり。後乃人又是を伝へこしとて
秘蔵(ひさう)誇説(くわせつ)に及ふも常の事なり。其物を
わきまへざるハ。愚(ぐ)をのがれかたしといへとも
今はそれを決(けつ)し正(ただ)すべきにあらざれハ。
伝ふるまヽのせ侍るなれ。予が罪(つみ)にあらずかし
▼奇怪(きくはい)霊異(れいい)乃事ハ。仏教(けう)及ひ。本朝神道
乃常談(だん)なり。若異俗(いぞく)膚浅(ふせん)の儒流(じゆりう)。因果(いんぐわ)
撥無(はつむ)のともがら乃為にはいふにあらす
▼寺々の中大師以前啓迪(けいてき)乃所あり。又大
 
師以後の事もあり或ハ後乃高(かう)人の異
迹(いせき)を引もの常(つね)の事なり
▼八十八番乃次第【略字】。いつれの世。誰(たれ)の人か定(さだ)め玉へ
る。さだかならす。今ハ其番次(はんし)によらす。誕生(たんじやう)
院ハ大師出生(しゆつしやう)の霊跡(れいせき)にして。遍礼乃事も
是より起(おこ)れるかし。故(かヽるゆへ)に今は此院を
始(はじ)めとす
▼今の記の中に遍礼(へんろ)数名(すうめい)にあらずといへ
とも。若道路隣(りん)境乃名跡(めいせき)なと聊(いささか)これを
載(のせ)るあり

▼凡紀籍(きせき)ハ。古を酌(くみ)。来(らい)に伝へて。世乃鑑(かヽみ)と
し。人の迷(めい)を解(とき)。道を弘(ひろ)むる器(うつはもの)なり。故
に浮説(ふせつ)妖妄(ようもう)にわたる事ハ。いま乃
とらざる所なり

四国遍礼霊場記巻一
 
   讃州上
 
善通寺      出釈迦寺
曼荼羅寺     甲山寺
本山寺      観音寺
琴弾八幡     小松尾寺
雲辺寺      金毘羅
 
五岳山誕生院善通寺
此所を多度郡屏風浦(たどのこほりひやうふがうら)といふ大師乃三教(がう)
指帰(しき)に玉藻(も)所帰之島(よるところのしま)。橡樟蔽日之浦(よしやうひをかくすのうら)と。
あそばされぬるも。即此所の事なり。さ
れは此地。もと大師乃御父氏(ふし)奕(えき)世の家園(かゑん)
なり。御父(ちち)姓は佐伯氏(さゑきうし)。名は善通(よしみち)とぞき
こえける。家姓景行(けいかう)天皇の御子稲背入彦(いなせいりひこ)
乃命(みこと)より出(いづ)とかや。敵(てき)毛をたいらげられ
し勲功(くんこう)に依(より)て。此地を給り胤(いん)葉ながく
こヽにつたハり。孝徳(かうとく)天皇乃御時佐伯の

姓を給ふとなん。御母は阿刀氏(あとうち)乃人なり。大
師此二親に託(たく)して此地に降誕(こうたん)し玉へり。故
に幼稚(ようち)にてましましける時乃御あそひ所
種(しゆ)々の霊(れい)異などありし所。今にあり。扨入唐
求(ぐ)法乃後此地をもて寺とし。父母祖先乃追(つい)
善且(かつ)は永世人民の福田に擬(ぎ)し玉へり。
五岳ハ香色(かうじき)山。筆山。出釈迦山。中山。火上山。
とて峙(そば)たつ五峯ある麓なるが故に五岳
をもて山号とし。善通寺ハ父乃名を
直(ぢき)に寺の名とし玉ふものなり。大師(し)出生(しゆつしやう)

乃地なるが故に誕生(たんしやう)院と称す。むかしの伽
藍(からん)は大唐(たう)乃青龍(しやうりう)寺を模(うつ)し玉ふといひ伝へ
たり。道範(はん)阿闍梨の記に金堂二階七間也
二階少引入て腰あるがゆへにうちみれは
四階大伽藍也。丈六乃薬師乃三尊。四天王の
像を大師(し)自(みづか)ら作り安置(ぢ)し給ふ皆埋(うつみ)仏也
後の壁に又薬師の三尊半土に埋み作られた
り。講堂七間。御作乃釈迦を安(あん)ぜり又二重(ぢう)
乃宝塔あり此内大師御筆の御影(みゑい)あり是
は大師入唐し玉ふ時万里乃波濤をこし

異国へわたらせ玉ふ事。御母かなしみ玉ふに
より。大師此自影をあそばし御母に預け
まいらせ御母をなぐさめ。且ハ御身がハりの告(こく)
面(めん)の孝(こう)になぞらへ玉ふ御影となり。西行(ぎやう)記
せるに。善通寺大師乃御影(みゑい)には。そばに
さしあげて大師(し)の御師かきぐせられたりき
と。道範(はん)阿闍梨此御影を拝み一首の歌に
 世に出てみつからとむる影よりそ入にし月のかたちをもみる
▼御誕生(たんじやう)乃所は山乃根也。西行かけるに。大師
のむまれさせ給ひたるとて。めくりしまハして。そ

乃しるしの松のたてりけるを見て
 あはれなり同し野山にたてる木のかヽるしるしの契り有けり
 岩にせくあか井の水乃わりなきハ心すめともやとる月かな
道範乃記には其所石高(たか)く広(ひろ)く畳(たヽ)めり。
今は如法経(によハうぎやう)を納め。七重の石塔ありと。範
師乃歌に
 高野山岩(いわ)の室戸にすむ月乃ふもとより出けるかさは
凡此寺中道範乃記には四面二町。其間種々
乃堂舎(だうしや)宝塔灌(くわん)頂堂護摩(ごま)堂。羅列(られつ)せりと
夫(それ)物の興廃(こうはい)は世乃常(つね)也。此寺世と移らざる

事を得ず。西行道範の比まてハむかしの伽
藍(らん)ありときこへぬれとも今はその跡のみに
て。今の大師堂は彼御誕生乃所に作れり
となり▼大師御童稚(とうち)乃時遊戯(け)の跡等皆
あり所謂(いわゆる)。遊墳仙遊原。四王執蓋地。捨身誓願
岳等なり▼西行の集に大師乃おハしましける
御あたりの山に庵むすひて住けるに月いと
あかく海の方曇(くも)りなく見えけれは
 曇なき山にて海乃月みれハ嶋そ氷の絶間(たへま)也ける
住けるまヽに庵いとあハれに覚へて

 今よりはいとハしめ命あれはこそかヽる住ゐの哀をもしれ
菴乃前に松立りけるを見て
 久にへて我後の世をとへよ松あとしのふへき人もなき身そ
一本にはあとしたふへき人もなき身にとあり
此松南大門乃西のわきにありときこへたり
西行歌よりこれを西行松といふ。道範聞て
 契(ちきり)置く西(にし)へ行ける跡にきて我もをはりを松の下露
▼大師乃御行道所といふ所。我拝師山といひ。五
岳の一つ也。今は別に出尺迦の一寺とするが
故にこヽにしげくせす。

▼此寺宮武乃御崇敬(すうきやう)代々あさからす。綸旨(りんし)
院宣(いんぜん)二十余通。将軍家御寄附状等多数あり
むかしは荘田もおほくありて禅公(ぜんかう)乃精衆(せいしゆ)林
をなし勅会(ちよくゑ)の法事なとありときこえき。東
鑑(あつまかヽみ)にも貞安二年三月十三日被停止セ讃岐国
善通寺領之地頭職畢是弘法大師御誕
生之地也長日不退(たい)ノ御祈祷之砌也。而ニ近年
被補地頭ヲ於彼領ニ之間寺用闕如之旨依捧ニ願
状ヲ殊ニ有其沙汰被止之已上
▼後嵯峨(さか)院御陵寺中にあり後宇多院亀

山院御石塔を左右に立てり亀山院宸(しん)筆
法華経并結経を紺紙(こんし)金泥(でい)にあそはされ
後嵯峨院乃御廟【マダレに苗】に備へ玉ふとて今にあり
▼什宝。大師乃御袈裟(二十五條)。御鉢
錫杖。一字一仏乃法華序品仏像ハ大師乃
御母のあそはし。文字は大師乃御筆也
。西行記(き)せるにも大師(し)の御手なともおハしましき
四の門の額少くわれておほかたハたがハすして侍
き。すゑ乃世にこそいかヽなりけんすらんと。
おほつかなく覚へ侍しと。道範乃時まて二枚

あり。善通之寺と。あそばされたりと。一伝(てん)に
載(のせ)るにむかし陰陽(ゐんやう)乃博士(はかせ)安氏(あんし)清明(せいめい)事乃
縁ありて。彼国へ下向(けかう)の時。夜道を行に。相具(ぐ)
したる使鬼神(しきじん)火をともしたりけるが善通寺
の前(まへ)を過(すぐ)る時。火をうちけちてみえず。寺を
過て後出来たり。清明勧発(かんはつ)しけれハ。此寺の
額(がく)ハ四天王守護し給ふか故におそれをなし
て道をかへたるとそ申けると
▼鎮守ハ八幡宮即大師乃御氏神也御神躰
大師御作なり

▼真雅(が)僧正は大師乃御胞弟(はらてい/おとと)にて。もとより
此所より出玉へり。故に此寺住(すま)せ玉ふ事
勿論なり。其後遍照院の僧正寛朝。延命
院元杲。小野乃仁海。宥範宥源宥快等乃
高徳(とく)達(たち)住居せりとなん。我道範阿闍梨仁
治四年乃春。はからさるに不罪乃罪を蒙る
事ありて此国に配流せられ幸に大師(し)乃
遺跡(けいせき)を慕(ほ)敬して寛元三年九月より此所へ
移(い)住あり。此(ここ)にて製作(せいさく)の出籍(しやく)おほし。浄土
乃祖師法然上人も。此国にながされし時大師(し)

乃遺跡を拝せん事をよろこはれけるとや
▼此寺乃務職はもと東寺の長者兼帯な
りしを後宇多院以後嵯峨乃御門主五六代
領し玉ひ其後唐橋親厳僧正寺務に任
せられしより随心院御門跡寺務となり

西行法師筆山といふ名につきてよめる歌
筆の山にかきのほりてもみつるかな苔乃下なる岩乃けしきを

我拝師山出釈迦寺
此寺は曼荼羅(まんたら)寺の奥院となん。西(さい)行の
かけるにもまんたらし乃行道所へのほるハ。
よの大事にて手を立たるやうなり大師
乃御経書て埋ませおはしましたる山乃峯(みね)
なりと。俗(ぞく)是(これ)を世坂(よさか)と号(かう)す其道(みち)乃
程険岨(けんそ)にして参詣の人杖(つへ)を抛(なげ)岩を取
て登臨(とうりん)す南北はれて諸国目中にあり
大師此所に観念修行乃間緑(みとり)乃松の上
白き雲の中釈迦如来影現(がん)ありしを大

師(し)拝(おか)み給ふによりて。こヽを我拝師(わかはいし)山と名(なつ)け
玉ふとなん。山家集にその辺(ほう)乃人はわかハし
とそ申ならひたる。山もしをハすてヽ申さすと
いへり。むかしは塔ありときこへたる西行乃
比まてはその跡(あと)に塔(たう)の石(いし)すへありとなり。
是は善通寺乃五岳の一つなりむかし
より堂(だう)もなかりきを。ちかき比宗善(ぜん)
といふ入道のありけるか心さしありて。
麓(ふもと)に寺を建立せりとなり。此山の
けはしき所を捨身の嶽といふ大師幼(いとけ)なき

時。求法(くはう)利生の御こヽろみに。三宝に誓ひ
捨身し玉ふを。天人下りてとりあけける
といふ所なり西行歌に
 めくりあはん事乃ちきりとたのもしき
 きひしき山のちかひみるにも
▼西行旧墟(きうきよ)乃水茎(くき)の岡は万陀羅寺の縁
起に載(のつ)といへとも此所にあり

我拝師山曼荼羅寺延命院
此寺は大師善通寺落成乃後。建立しみつ
から七仏薬師乃尊像を作り金堂に安
置し玉へり。彫【周に久】楹(てうえい)玉台日景を引。談義龍象
林をなせり。されハ元杲(ごう)仁海成尊等乃名徳(とく)
寓居(ぐうきよ)し玉ひ秘教(ひけう)称揚(やう)の道場(ちやう)名望(めいはう)高遠(かうゑん)の
勝区なり。中世しば々々兵賊(ぞく)にあふて。宝甍(もう)
粉牆(しやう)魑魅(み)乃棲(すみか)となれり。州(くに)の監察(さつ)生駒(いこま)氏
乃家臣三野のなにがしとかやこれを見て。
感慨(かんがい)にたへす三間の仏宇を造営し俸(ほう)田

数頃(すけい)を割(さい)て寄附(きふ)し。再(ふたた)ひ香燭を継(つき)。遠(とを)
く絶紐(ぜつちう)をそ維(つな)ぎけり。凡此院や。金城
北に峙(そはた)ち。沃野(よくや)綺(かんばた)乃ごとくに布(しき)。五岳南
に聳(そび)へ碧岩(へきがん)鉾(ほこ)のことくに連(つらな)れり。今境内(けいたい)
二町四方林木繁蔚(はんうつ)して清幽都(すべ)て塵事(ぢんじ)
を忘(わす)るはかり也。本堂大日如来。護摩堂相並(なら)び
前に鐘楼あり後に鎮守権現祠(やしろ)あり▼西行
法師寓居(ぐうきよ)乃旧墟(きうきよ)水茎(くき)乃岡(をか)ハ。此(これ)より三町ほと
西にあり。山さとにうき世いとはむ友もかな
乃歌は此所にてよめるとかや。此寺の庭に

西行笠懸(かさかけ)桜といふあり。歌もあり聞つれとも
わすれたり
▼此寺。元杲(ごう)仁海成尊乃三名徳の遺塵(いぢん)といひ
伝ふ。彼小野乃寺を曼荼羅寺。延命院
なといふ。彼此異(こと)ならす小野の寺ハもと
西行院といふとかや。今此寺大師御建立乃
時より今の名あらは。小野の寺も此寺の
名をとれるにや

医王山多宝院甲山寺
此寺むかし大伽藍(がらん)乃所といへとも荒涼(くはうりやう)せり盛(せい)
衰(すい)は世乃数(すう)ある事を人感(かん)ぜずといふ事なし
本堂本尊薬師如来大師乃御作霊験(れいげん)響(ひヽき)の
ことし一寺蕭(しう)滌とし靄煙(あいえん)うすく籠(こめ)たり後(うしろ)ハ
山林樹(しゆ)繁(はん)茂し。前は曠野(くはうや)見掩(わた)し。田畠綺乃
ことし。民家相接(ましは)れり

本山寺宝持院
此寺本山乃庄にあるが故に。本山寺と
よぶ。長福寺とそきこゆ。本尊馬頭(ばとう)観音。
弥陀薬師を両脇(わき)に立たり。三尊ともに
大師乃作なり。堂の右に石乃塔あり。門
内大古松あり枝條扶疎(ふそ)として幾世をか経(へ)
ぬるむかしをとはましきハかりなり。堂の後
古五輪(りん)五六基(き)あり。寺牆(かき)を隔(へた)て構(かま)へたり
境内壱町半。めくり松桜杉椿なと茂し。二王門
乃右に五所権現乃祠(やしろ)あり。前に長川横(よこた)ふ

七宝山観音寺
此寺は大師入唐求法して帰朝乃後。
琴弾宮に詣(まふで)て。賽(かへりまうし)の法施(ほつせ)あそばし
けるに。御託宣(たくせん)乃事によりて。此地をひ
らき。寺を立。方袍(はうほう)の人を置(をき)。常に法
味(み)を八幡にすヽめ奉る事を謀(はか)り玉へ
り。大師手つから観音を作り高堂を
立て安置し。観音寺と号す。又丈六乃
薬師如来乃像を作り。金堂に安す。脇に
四天王の像あり。弥勒堂。宝塔。愛染王。

堂宇尤(もつとも)輪困(りんこん)たり。石塔四十九基(き)を起(き)
立す。蓋(けだし)都率(とそつ)の四十九重を表し玉へる
とかや。又大師七種乃珍宝を此山に納め。
国家乃鎮押(ちんあふ)とし玉ふか故に。七宝山と
称すとなり。山八葉にとり。又九所の秘穴
あり。惣(そう)して金剛界胎蔵界或は不二の
表配等種々の深趣を縁起乃中に書た
り。寺中今七宇あり

琴弾八幡宮
此宮は文武天皇乃御宇大宝三年。宇佐
の宮より八幡大神爰(ここ)に移り玉ふといへり。其時
三ケ日夜。西方の空(そら)鳴動(めいどう)し。黒雲をほひ。日月
乃光見へず。国人いかなる事なるやとあやしみ
あへる処に。西方乃空より白雲虹(にし)のごとく
聳(そび)き。当山にかヽれり。然して此山の麓(ふもと)梅腋(むめわき)
乃海浜(ひん)に一艘(そう)の怪船(くわいせん)あり。中に琴の音あり
て其音(こへ)美(み)妙にして。嶺(れい)松に通ひたり。其比
此山に止(し)住の上人あり名を日證といひ

けり。此上人船に近(ちか)づきて。いかなる神人にて
ましますや。何事にか此にいたらせ玉ふととひ。
けれは。我はこれ八幡大菩薩なり帝都(ていと)に近(ちか)
つき擁護(おうご)せんがために。宇佐より出(いて)。此地霊(れい)
なるが故に。此にあそべりとのたまへり。上
人又いはく。疑惑(ぎわく)乃凡夫(ぼんぷ)は異瑞(いずい)を見ざれは
信(しん)じかたし。ねがはくハ愚迷(ぐめい)乃人のために霊異(れいい)
をしめし給へと。其夜の内に海水十余(よ)町
が程。緑(りよく)竹乃茂叢(もそう)となり。又沙浜(しやひん)十歩(ほ)余(よ)。松
樹(じゆ)乃林となれり。人皆此奇怪(きくわい)を感嗟(かんしゃ)せず

といふ事なし。上人郡郷(くんきよう)にとなへ。十二三歳の
童児(とうに)等乃。欲染(よくぜん)なきもの。数(す)百人を集(あつ)め。
此山竹乃谷より御船を峯(みね)上に引上(あけ)
斎祀(さいし)して琴弾(ことひき)別宮と号し奉る。御琴
并に御船いまに殿内に崇め奉る。数回(すかい)
霊異(れいい)の事あり。此船は神功皇后(じんくうくはうぐう)異国(いこく)
征伐(せいばつ)乃時乗(のり)玉ひし船といひ伝へたり。凡八
幡乃御事朝家乃御宗廟別して異国(いこく)降
伏(がうぶく)の霊(れい)神なり。此故に当宮西海に臨み玉ふ
是也。北の宮は武(たけの)内ノ大臣南ハ住吉(すみよし)明神。下に

若宮(わかみや)権現。傍(かたはら)に鐘(しや)楼あり。其佗(た/他)七十五神乃
神社(じんしや)あり。中にも青丹(あおに)大明神を御上首とす。
此山岩巒(がんらん)崎嶇(きく)として三方は海なり。山嶽(がく)乃
神秀(しう)霊仙(れいせん)の窟宅(こつたく)なるか所なり。半腹(ふく)に華(くわ)表
を立。又麓(ふもと)に石乃鳥居(とりい)あり。近比勅額(ちよくがく)を給
ハれり。縁起は権中納言実(さね)秋卿の筆也。大
将軍家乃華押(くわおう)あり道範闍梨此宮に詣(まいり)
 松風にむかしのしらへ通ひきて今に跡ある琴弾の山

小松尾山大興寺
此寺大師弘仁十三年に開闢(かいひやく)し玉ふとなり
そ乃かみハ七堂伽藍(からん)の所。いまに堂塔の礎(そ)
石あり。其隆なりし時は。台密(たいみつ)二教(けう)講学の
練衆(れんしゆ)■【鹿のしたに章/くじか】乃ごとく群(くん)をなせりとなん。▼豊田(とよた)ノ
郡(こほり)小松尾の邑に寺あるが故に。小松尾寺とも
よび。山号とするかし。本尊薬師如来脇士不
動毘沙門立像長四尺。皆大師乃御作。十二
神各(をの々々)長三尺二寸。堪慶作なり。本堂の右に
鎮守(ちんしゆ)熊野(くまの)権現乃祠(やしろ)。左に大師の御影堂

大師の像堪慶作なり
▼天台大師乃御影あり。醍醐勝覚の裏書(うらかき)あり。
▼大興寺とある額(かく)あり。従(じゆ)三位藤原朝臣(あそん)
経朝(つねとも)文永四丁卯歳七月廿二日丁未処之
如此うら書あり。是経朝は世尊寺家(け)也行
成●第八世之孫ときこゆ。むかしのさかへし事
をもひやる。ちかき比まて宝塔鐘楼あり
となり

巨鼇【敖のしたに亀】山雲辺寺千手院
此山峯巒?■【山のしたに率】(ほうらんりつそつ)とけはしく。幽途(ゆうと)先齬(せんご)とかたヽが
ひにして。直にのぼる事五十町。堂宇雲
につヽめり。雲辺(へん)の名むべときこゆ。西は与(よ)州
直下(ちよか)に見。北ハ中国之諸州一望(ばう)し。東南ハ讃阿
土の三州めくれり。其蟠根(はんこん/わだかまるね)四国にわたり。むかし
は四国坊とて四ケ寺ありとかや。今は此一寺
にて。阿州乃城主より造立し給ひぬれと。
讃州乃札所に古来属せり▼本尊千手
観音坐像長(たけ)三尺三寸。脇士不動。毘沙門。皆大師

乃御作なり。御影堂。千体仏堂。鎮守祠。伴(はん)社。鐘
楼。二王門あり。境内高樹森々として絶塵也。
▼此寺縁起あるよし予(よ)はいまた見す。自
黙道人は見たるとてかけるに。いつの比と
かや。閑成といふますらお。一つの鹿を射(い)て。血(ち)
のながれぬる跡を留【当カ】るに。此堂の中へいりぬ。
閑成あやしみ。本尊を拝み奉れは。本尊に
矢(や)乃あたれるあとあり。閑成罪を悔(くい)て
発(ほつ)心出家す。是そのをのこ朝夕殺生(せつしやう)罪
業(さいごう)を作りけるを。仏あはれみて。化し玉ハん

御方便(はうべん)に。かくなんありけるならし。中古
回録乃災あり。時本尊見へ給ハさりしか
年を経て後。忽然として現し玉ふとや
巨鼇とハ列子(れつし)に渤海(ぼつかい)乃東に大壑あり。
其中に蓬莱(ほうらい)方壺(はうこ)等(とう)の五山あり。居る所の
人は皆仙聖乃種(しゆ)なり。此五山の根(ね)つら
なり着(つく)所なし。当に潮波(うしほなみ)に従(したかい)て上
下往来(おうらい)して。暫(しはら)くも峙(そばた)つ事を得す。
帝(てい)西極(きよく)に流(なか)れん事を恐(おそ)れて禺強(ぐきやう)
に命(めい)じて。巨鰲(きよがう)十五をして首(かふべ)を挙(あげ)て

これを戴(いたヽ)かしめ。これより其山動(うこ)かすと。
今此山も峙(そばた)ちて彼五山乃浮(うか)へることくなれ
は巨鼇を山号とせるにや
▼鼇海中大鼈(へつ/かめ)伝云有神霊之鼇列子作鰲
鰲大魚鼇為是

金毘羅権現
山を象頭山と号す。遠望(ぼう)乃山のすかた。象
頭のことくなるか故に名とすとなり。寺を
松尾(を)寺金光院といふ。路寝(ろしん)仏塔宝甍(もう)尤(もとも)輪(りん)
奐(くわん)たり。誠に国中の壮観遐邇(かじ)乃企望(きばう)
する所なり。▼金毘羅権現此山鎮座(ちんざ)の
年代さだかならす。只三千年になれりと
いふ人あり。金毘羅といふ名は。蓋(けたし)仏経に出る
なれば。其名乃あらはれぬる事。仏教(けう)東
度(とうと)ノ後(のち)なるか。我レ聞(きく)大物主乃命(みこと)天竺(ちく)にゆき

ましてかしこにて金毘羅といひしとかや。伝(でん)
教大師神域(いき)に通(つう)じ。金毘(ひ)。三輪(わ)。一躰と思し
給ふ事あり。経乃中に演(のぶ)るに。釈尊に
提婆(たいば)大盤石(はんじやく)を投(なげ)し時。神手を以。石を
さヽへたまふは。此神なり。即祇園(きおん)精舎(しやうじや)の
鎮守(ちんじゆ)とし玉ふものなり。当権現今も奇
怪(きくわい)乃事おほしときこゆ。本社の上方に
岩窟(がんくつ)あり。其中に権現御真体(しんたい)ましますよ
し。霊威(れいい)口をもていふ事あたハずとぞ
是(これ)等(ら)によりて宮武乃御崇(そう)敬むかしより

あつく今も御朱印下し置れ知行三
百余石ありて奠■【食ヘンに貴】奉幣(てんきほうへい)とぼしからす
。此山峯高く谷ふかく。華木雲水絶(ぜつ)勝に
して。四時乃風景(ふうけい)優賞(ゆうしやう)すへし。近比十二
境をえらび林氏(りんし)父子(ふうし)題せる詩(し)あり
十二境詩
   左右桜陣
呉隊二姫笑 ■【業にオオザト】宮千騎粧 花顔誇国色 列対護春王
   後前竹囲
移得渭川畝 湘孫貽厥多 百千竿翠密 本末葉森羅

   前池躍魚
同隊泳其楽 自無香餌投 繞岩縦往所 活溌囲洋悠
   裏谷遊鹿
林■【庚のしたに貝】樵子唱 山対玉川眠 凹処跫音少 ■【クチヘンに幼】々麌々連
   群嶺松雪
尋常青蓋傾 項刻玉龍横 棲鶴失其色 満山白髪生
   幽軒梅月   別野
起指霽光開 坐看疎影回 高低同一色 知否有香来
               右六首春斎作
   雲林洪鐘

近似万車轟 遠如小磬鳴 風伝朝午晩 雲樹亦含声
   石渕新浴  十月十日有祭神之事於此修禊事
石淵風俗新 知有詠帰人 能使箇心潔 臨流欲賽神
   箸洗清漣  山中岩上有一小池十月十一日夜以於神前修神事者箸洒斯池納阿州箸蔵寺山故曰箸洗池也於今見霊異者非一也
一飽有余情 波漣源口亨 漱流頻下箸 喚起子荊情
   橋廊復道
人攀西嶽去 有向北溟流 風力推無運 如知不是舟
   五百長市

半千長市坐 高下巧成隣 無意弄烟景 沽諸待価人
   万農曲流  河源大池弘仁帝代所築也
清波浮喬岑 長流早則霖 弘仁余帝沢 一畝当千金
               右六首春常作
金毘羅は順礼乃数にあらすといへとも当州
乃壮観名望の霊区なれは遍礼の人当山に
往詣せすといふ事なし故に今の載る所也
道すしは善通寺のあたりなりといへとも今
は強て道すしにもよらす出尺迦にはさみかた
きか故に此に入者也

  跋題
我雲石堂少挟技術
学余多尽仏祖之像
為人珍敬焉依之今
霊場之図不仮画工

之手而咸自労画焉
本自公之草聖世之
所称嘆也此書能讃
聖迹者豈霊場之霊
宝者乎惟惜書肆輙

■【カネヘンに侵のツクリ】梓以為沽之哉
貞享戊辰商音穀旦
 清浄観中宜拝書
            印 印

 此巻彫工傭貨助友。大坂下愽労木屋市郎右衛門為宝樹妙室知钁。
 天満樋上橋塩飽屋宗貞。江子嶋淡路屋宗雲与真言講中。塩飽牛嶋
 長喜屋伝助。同所長喜屋権兵衛。同所丸尾伝七。同所泊浦中西半
 左衛門為宗月。同所吉嶋森安久助。出羽国鶴岡佐藤仁右衛門。同
 国庄内糸屋惣七
        
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