四国遍礼霊場記巻二
 
   讃州下
 
弥谷寺         金倉寺
道隆寺         道場寺
崇徳天皇        国分寺
白峯寺         根香寺
一宮          屋嶋寺
洲崎堂 附次信墓    八栗寺
志度寺         長尾寺
大窪寺

剣五山弥谷寺千手院
此山は本(もと)行基ほさつ乃開基なり。大師
霊験(れいげん)を見て攀(よち)のほり。求聞持(くもんち)修(しゆ)行あそ
ばしける時虚空(こくう)より宝剣(けん)五柄(へい)降(くだ)るの故に
剣(けん)五山と号す。又は剣(つるぎ)の御山といふ。五(ご)と御(ご)
声(こゑ)同しきにや。山南にひらけ。三朶(だ)乃峯
東北西に峙(そばだ)てり。其中岫(しゆ)に就(つい)て大師岩(いわ)
屋を掘(ほり)。仏像を彫刻(ちうこく)し玉ふ。本堂岩屋より
造りつヽ【濁点】けて。欄干(らんかん)雲を帯(おひ)。錦帳(きんちやう)日をいる
本尊千手観音大師乃御作。故に千手院と

号す。不動毘沙門を脇士とせり▼護摩(こま)の岩
屋二間四方石壇(いしだん)乃上に不動(とう)。弥勒(みろく)。阿弥陀乃像
まします其脇(わき)乃石壇(たん)に高野道範(はん)阿闍梨(あざり)
の像あり。是は範(はん)師此国に配流(はいる)の時
当寺の住持上人乃所望(もう)によりて。範師(はんし)行
法肝要(かんよう)抄を撰(せん)ぜられしと。彼書の奥書(おくかき)に有。
其住持などの此像を作りをけるにや▼
聞持窟は九尺に二間余内乃まハり岩面(めん)には
五仏。虚空(こくう)蔵。地蔵等切付(きりつけ)られたり。又大師乃御
両親(しん)に擬(なぞ)らへ玉ふとて弥陀。弥勒。石像に作り

給ひけるあり。今の人直(じき)に大師(し)乃御両親(しん)とそ
拝みける。又大師乃御影もあり。いにしへハ木造に
てありけるを。石にて改(あらた)め作り奉る。其岩窟乃
前四六間の拝堂(はいだう)南むきにかけ作りにしたり▼
本堂の左乃盤石(ばんじやく)に弥陀三尊六字の名号九
くたり大師乃御筆にあそばしたり▼大師
登臨(とうりん)乃時蔵王権現示現(ぢげん)し玉ひ。即鎮守(ちんじゆ)とす其像
大師御作。御長(たけ)七八尺。もとより可畏(かい)の形(かた)ちなり。
此あたりも岩(いわ)ほに阿字を彫(えり)。五輪塔(りんたう)。弥陀三尊
等あり見る人心目(しんもく)を驚(おとろ)かさずといふ事なし

此山惣して目の接(まじわ)る物。足(あし)乃ふむ所。皆仏
像にあらずと云事なし。故に仏谷と号し
又は仏山といふなり。護摩窟(こまくつ)の下の方に鐘
楼あり。住坊は半腹(ふく)に構(かま)へたり。斜(なヽ)めなる石逕
の両方石仏又おほし。三町程下に二王門を開(ひら)
けり。是より少左に石窟(くつ)薬師(やくし)堂あり。▼東
南方高峯(みね)岩頭(がんとう)皆五輪(りん)仏像なり。幾(いく)千と
いふ事をしらす。▼凡当山懸崖(けんかい)崔嵬(さいくわい)とさかし
く。幽迥(ゆうきょう)にして隣(となり)なきがごとし。彼霞(かすみ)を服(ふく)し風に
駕(か)する人にあらすは。たれかよくこヽに至らんや

雲霧(うんむ)常(つね)に起(おこ)り。霊(れい)木異(い)草繁(しけ)く。岩端(かんたん)泉
流(せんりう)いと清(きよ)し。精神(せいしん)凄然(せいぜん)として。嗜欲(しよく)更に消(せう)す。
▼此峯にのほりぬれは。八国を一望(ばう)するが故に。
八国寺といひける。にて近郷(きんきやう)乃人此所にのほるを。
八国するとぞいふとなり。何れの時よりか弥谷(やこく)
と書(かく)。弥(や)と。や乃声(こゑ)をとり。八(や)乃字に相かへ。
国谷(こくこく)声(こゑ)同しにや。凡ソ山寺院号まて毎々(まいまい)八
栗(くり)寺と異(こと)ならず。行状記(きやうじやうのき)に載(のす)る所。当山の内
わかちかたし。但行状ノ記は。あやまりおほけれハ。
照(せう)とすべきにたらす。山乃霊(れい)なる事ハ彼此(ひし)霊

霊(れい)なり似たる事も又一霊(れい)なり▼当山いに
しへ霊宝(れいほう)数多(あまた)あり。数回(すくわい)賊(ぞく)乃ためにうばヽ
れ。存する物おほからす。一奇物(きもつ)あり。大師(し)所
持(じ)し玉ふ。紫銅(しとう)の鈴(れい)なり。めくりに四天王を彫(えり)。
其間々にハ三■【月に古/鈷カ】杵(こしよ)をほり付たり。みる人喟歎
せすといふ事なし

鶏足山金倉寺宝蔵院 又道善寺とも云
当寺は智證(ちしやう)大師誕生(たんしやう)乃旧区(きうく)なり。證(しやう)師
父は和気(わけ)氏名(な)は宅成。母は佐伯(さゑき)氏。我大
師乃御同胞(とうはら)なり。證師生れて聡敏(そうひん)に
して。老成(らうせい)の人のことし。八才の時父に謂(いひ)て
内典(でん)乃中。因果(いんくわ)経といふ物あるへし。われ
読(よま)ん事を欲(ほつ)すと。父驚(おとろ)き即(すなはち)たつね
てあたふ。十歳乃時。毛詩。論語。漢書(かんしよ)。文
選(せん)を読(よむ)。十五にして延暦(ゑんりやく)寺乃座主(さす)義真(きしん)
乃弟子となり。後山王権現の告(つけ)に依(より)て

入唐(たう)し帰(き)朝して三井寺をひらき伝来
乃経釈(しやく)仏像を安置す。今此寺は其父母
の家園なるか故に。菩提(ほだい)乃為といひ。みつか
ら其出生(しゆしやう)の跡(あと)を永く仏場として。世に
しらしめ給ふ物ならし。即自筆の遺影(ゆいゑい)あり
永暦二年禁(きん)中より修補(しゆほ)し玉ひしとなり
請来(しやうらい)の万荼羅(たら)。鐃鉢(ねうはち)。十六善神等什宝数(あま)
多あり。本堂本尊薬師如来。鎮守社八幡。拝
殿あり。右に鐘楼。山王権現并に智證大師(し)
御影堂あり。

▼此寺我(わが)大師乃御遺跡(ゆいせき)といふにハあらす。此寺
ひらきぬる事。我大師の後にあり。大
師御入定(てい)乃時分は智證大師年漸(やうやく)

二十はかりなり。智證乃御母は大師乃
御同胞(はら)なれは。大師此地にあそばせ玉ふ
事は勿論(もちろん)也

桑田山道隆(りゆう)寺明王院
当寺は元明天皇乃御宇和気(わけ)の道隆(みちたか)と
いふ人あり。これを啓迪(けいてき)すといへり。隆ハ日
本武(やまとたけ)乃命(みこと)の裔(すへ)とかや。嘗(かつ)て隆(りう)乃桑苑(くわその)の
中に一大桑あり。怪異(くわいい)の事ありて。其桑(くわ)
を伐(きり)薬師如来乃像を刻彫(こくちう)せしめ。小堂を
作りて安置し。あさなゆふな奉事せり。延
暦乃末年隆(りう)乃孫(そん)に朝祐(ともすけ)といふ人あり。我
大師にあひて。先祖の事をかたり。彼桑像
をみせ奉りて。小像なるか故に。大像を大

師乃手刻に請ふ。大師其篤信(とくしん)を感(かん)し玉ひ
長二尺五寸乃薬師を作り。其桑像を胎中
に入永世不失(しつ)の秘計(ひけい)に擬し玉へり。朝祐ふ
かく真乗(しんじやう)に帰(き)し鬚髪(しゆはつ)を剃(そり)戒(かい)を受(うけ)世塵(ちん)
をさり。家園(かえん)財(さい)宝を捨(すて)。精舎(しやうじや)とし此本尊を
安置して大師を供養(くやう)し奉り境内(けいだい)標分(ふん)
四町四方を卜(しめ)。本堂。弥勒堂。宝塔。鐘楼。二
王門。僧坊等頗(すこぶ)る梵(ぼん)風を究めたり。先祖(そ)道
隆より事起(おこ)るの故に。其名をもて寺号
とす。弘仁乃末年。朝祐入道大師を請(しやう)して

結縁(けちゑん)灌頂(かんてう)執行(しゆきやう)あり。遠近(ゑんきん)道俗聞(きく)に随(したかひ)て
相逐(あいをひ)来る人。所せきまて市をなせり。此時寺
十余(よ)宇作りて。あつまれる人をぞ入(いれ)けり。爾(しか)し
より仏法繁興(はんこう)乃区となれり。しかれとも世
移(うつ)り。今はむかしに似すなりぬ。寺中は只(たヽ)一音(おん)
院(いん)一宇そ残て。佗(た)は礎石(いしずへ)のみ存せり。され
ともむかしの遺具(ゆいぐ)とて。什宝二三百色もあり。
ときこゆ。凡ソ其境(きやう)地右ハ五嶽(かく)手にとりつへし左は
丸亀(かめ)乃城高く峙(そばた)ち。南ハ葛原(くすはら)。北は海。寺内
松樹鬱茂(うつも)し。一幽区(ゆうく)ときこへたり

仏光山道場寺
此寺本尊阿弥陀。大師乃御作鎮守社。鐘楼
あり。いつの比よりか。時衆の寺となれり。
むかひは津の山。茶うす山。左は塩飽(しあく)。佐美(さみ)嶋。
滄海漫々たり。此所を鵜足津(うたつ)といふ。我道範
阿闍梨配流(はいる)乃初。鵜足津乃幹(かん)。橘(たちはな)氏に預(あつ)け
らる。範公自(みつママ)ら記(き)せらるヽ中に。在家少々引上り
て。堂社一宇僧坊ある所に移しすへらる。此所
地形殊勝(しゆしやう)に。東に望(のぞ)めは孤(こ)山夜月をさヽ
け。月輪(りん)の観を勧(すヽ)め。西に顧(ふりか)れハ遠嶋(とをしま)夕日

を含(ふく)み日想観自(おのつ)ら催(もよほ)す。後(うしろ)に松山聳(そひ)へ
て海中に至る歌に
 さひしさをいかてたへまし松風の浪も音せぬすみかなりせハ
或時山にのほりて見渡して
 うたつかた此松陰に風立は嶋のあなたもひとつしら浪
おもふに範公寓居(ぐうきよ)乃寺は蓋(けだし)此寺ならんかし

金花山妙成就寺摩尼珠院
此寺大師乃御開基本堂本尊十一面観音。
▼鎮守金山権現。城山大明神といふ。いにしへより
祭祀(さいし)し奉れり。伴社(はんしや)数多あり。こヽに崇徳(しゆとく)天
皇乃御霊(みたま)を勧請(くわんじやう)し御廟【マダレに苗】あり。故に人みな
崇徳天皇とよべり。此所天皇崩御(ほうぎよ)あそばされ
し時。金棺(きんくわん)暫(しはら)くこヽに置奉りしにより。宮作り
しあがめ奉るとかや。釣(つり)殿拝殿あり。寺は観
音堂の後にあり。此寺いにしへ伽藍(からん)廣(ひろ)く構(かまへ)
堂宇あまたありときこへたり。境内礎石(いしずへ)おほし

▼本社より一町ほと西乃方に野沢(やさわ)といふ霊(れい)水
あり。此水を用ゆるに諸痛病(つうびやう)療(いへ)すと云事なし
此霊水より二三町ばかり上。山乃半腹(ふく)に石(いし)の
薬師あり。大師乃作。長二尺はかりの立像なり
彼霊水此薬師より出通(いてつう)じけると。所の人ハいひ
あへり。されは此石像板(いた)敷に安(あん)ずれハ沢水出(いて)ず
石座にをきぬれハ其水絶(た)へずとなり。伝へ
云むかし景行(けいかう)天皇の御宇佐留霊公(さるれいこう)ときこへし
人あり。南海船にてゆきける時。大魚船を飲(のみ)
て船中乃人みな死(しに)き。彼公ひとり心強(つよ)くて

剣をもて大魚の臓(そう)を破(やふり)て出(いて)つ。然とも身
あやしく息(いき)たへける時。天童(とう)降(くたり)て此沢(さわ)水を
そヽぎ蘇生せり。故に弥(や)蘇波(は)と書となり。然
は此水往古(おうご)よりありて。薬師は後なり。此霊水
あるによりて。大師薬師を作り置玉ふならし。
所々の温泉(おんせん)みな薬師あるがごときか。又崇徳院
崩御乃時。白峯か青峯か。両所の中に納むへき
よし。御遺勅(ゆいちよく)ありしを。国司及ひ供奉(くふ)の人等京
師へうかヽひける間。玉躰そこねさせ給んやとて
金棺(きんくわん)を此沢水に浸(ひた)し置奉れり。しかしより

此水いよ々々霊なりといふ
▼此浦乃むかひにみゆるに沙弥嶋と云あり。是
は醍醐(だいご)聖宝尊師乃出生(しゆしやう)し給ひし所なり
歌枕にハ佐美(さみ)嶋と書り。玉もかるさにきの国
乃さみしまとよめり。塩飽(しあく)嶋をならべり

白丑山国分寺千手院
当寺行基ほさつ乃開基となり。諸州国分
寺の事聖武天皇聖姿(せいし)両儀にあひ。玄徳
神眼に通(つう)し。大に含霊を庇(おほ)ひ。厚(あつ)く三宝を
崇(あが)め給ひ。天平九年詔(みことのり)して。丈六乃釈迦及
二菩薩の像を造(つく)り大般若経を写して。諸
州に領(あが)ち玉へるもの也。谷風の嘯虎(せうこ)に生し
慶雲の騰(とう)龍に従(したか)ふ。みな物乃感遇(かんぐう)なり。時
に行基ほさつ出玉ひ。畿(き)内半百の精舎(しやうじや)を
立。諸州おほく霊区(く)をひらき。資(たす)けて風化

を敷玉ふ。当寺行基乃開基といふもの是ならし。
▼今の本堂東西九間南北八間。本尊千手観音。
長一丈六尺。大師乃作といふ。蓋(けだし)聖武天皇詔(みことのり)し玉ふ
所。丈六乃尺迦ときこゆ。然といへとも諸州かならす
尺迦にあらさるものおほし。彼時薬師観音もあり
しか。▼薬師堂東の方にあり。鎮守春日明神なり
伴(ばん)社四十未【ママ/余カ】神▼本堂の東に一大枯木あり。勅木
といひ。本尊作りあまりの木ともいふ。霊異おほし。
堂の前蓮池あり。橋をかけて往(おう)来す。堂ノ正
当南に二王門あり。又此前に廣(ひろ)き池あり

関乃池と云。蓮亭(てい)々として清く立。香遠く
して愛(あい)すべし。国司(し)より観音の永供にと
充(あて)られ。余人取事をゆるさす
▼境内四町四方松杉繁茂し頗る精舎乃風
致(ち)さも覚へぬ。往古の仏閣甍(もう)宇。土佐虐(ぎやく)
乱に燬撤すとなん今其跡みな存す

綾松山白峯寺洞林院
此寺我大師ひらき給ひて岩岫(がんしう)に宝珠(ほうしゆ)を埋(うつみ)
国家乃鎮(ちん)とし。阿伽井をほりて。法水永く
きよからん事を謀(はか)り玉へり。其宝珠の■【マダレに莢のツクリのした土/うつむ】地ハ
瀧(たき)つぼとなれり。智證大師(し)入唐(たう)帰(き)朝して。金倉(こんざう)
寺を創(はし)め居(きよ)住し給ひしに。貞(でう)観二年乃冬の
初とかや。北条の郡(こほり)大椎乃澳(おき)鳴動(めいどう)して。光明
海上をかヽやき。異香(いきやう)国界(かい)に薫(くん)ず。人皆あや
しみあへりけり。国司(こくし)より円珍(ゑんちん)和尚に尋(たつね)ら
る。和尚十峯山にのほりて見給ふに。彼山上に

一つ乃幽窟(ゆうくつ)あり瑞光(すいくわう)其窟に通(つう)せり。時一老翁
出現して云く吾は此山乃神也。久しく神道に
ありて仏法の威(い)福を望(のそ)む公(こう)は弘教(くけう)乃人
なり。今幸にあへり今の光瑞(ずい)は補陀洛(ふだらく)山より
霊(れい)木流(なか)れ来り海中に有ものなり。公是を仏像
とし永世を利せよ。我いさヽか公に副(そは)んと。こヽに
をいて。和尚其木を神と山中に引上け。十体乃
観音を作り給へり。当寺の本尊其一体なり。
高堂を立て安置せり。▼白峯とハ此郡に
四方中央五峯乃霊区(く)あり此峯ハ西にあ

たり其方色を取て白峯と号すかや。東は青
峯即(すなはち)根香(ねごろ)寺なり佗(た)は不詳(つまひらかなら▼すカ)
▼崇徳院保元乃乱に此国に迂(うつ)されさせ玉ひ。遂に
崩御(ほうぎよ)ありて此山に葬(ほふむ)り奉れり▼御廟(マダレに苗)玉も
て彫(ゑれ)るはかり也。左の殿ハ千手観音。右乃殿には
相模(さがみ)坊也相模坊は形ち天狗。本地不動にて南
海乃守護(しゆこ)神となり▼天皇葬(ほふむり)し所は御廟(マダレに苗)乃少
うしろの山中にあり。右は為朝(ためとも)左は為義(ためよし)乃石
碣(けつ)あり▼天皇此国迂幸(せんかう)の初めハ松山乃津。在庁(さいちやう)
野太夫高遠(たかとを)が御堂にをき奉り。三ケ年をは送り

たまふ。柱(はしら)に書付玉ふ御歌
 爰も又あらぬ雲井と成にけり雲行月の影にまかせて
天皇御閑暇(かんか)に五部乃大乗経を宸翰(しんかん)にあそバ
されて。都の内に納させ給ハんとて。都へつかハし
給ふ御歌に
 浜(はま)千鳥跡は都に通へとも身は松山にねをのみそなく
然る所に少納言入道信西はからひ申けるは。若咒咀(しゆそ)の
御心にやとて。御経を返しける。此時大に嗔怒(しんぬ)をを
こし玉ひて。我大魔王と成て。天下を我まヽにせん
と。御誓(ちかい)ありて。御指の血(ち)して御願(くわん)文をかヽせ

たまひ。其経箱に奉納龍宮城とあそはし。椎途(つちど)と
よふ海底(てい)に沈(しづめ)させ給へは。海上火もへて。童子出て
舞(まい)けるを御覧して。我願成就とよろこばせ給ひ。
御くしも其まヽ。御爪なかくして。供御をもめさす。まし
々々けるとそ。松山より国府甲知ノ郷鼓岳(つつみおか)乃
御堂に移(うつ)し奉り。六年をへて。長寛二年八月
廿六日に。御年四十六にて。崩御(ほうきよ)ならせ給て。当
峯に葬(ほふむ)り奉る。 近侍者なりし遠江乃阿闍
梨章実といふ人。国府乃御所を当寺に移
して。頓證寺と名(なつ)け。御菩提をとふらひ奉る。

仁安元年初冬の比西行法師(し)御廟【マダレに苗】にまふてヽ
法施(ほつせ)し奉りけるに御廟【マダレに苗】震動(しんどう)して
 松山乃波に流てこし舟のやかてむなしく成にける哉
と御廟【マダレに苗】中よりきこへける時西行涙(なみた)をなかして
 よしや君むかしの玉乃床(ゆか)とてもかヽらん後ハ何にかハせん
此時西行腰(こし)かけしとて社前ニ西行石といふ今にあり
山家集にはさぬきに詣て。松山と申所に。院おハし
ましけん。御跡尋けれともかたもなかかりけれは。と書て
波になかれてこし舟のうたをかきたり又
 松山の波乃けしきハかはらしをかたなく君ハなりまさりけり

此二首を西行松山乃詠(ゑい)とし白峯と申所に
御はか有けるに来てと書てよしや君乃うたあり
▼天皇初めは讃岐院と申せしを。安元の末年
改て崇徳院とそ追号あり。其後次第に御
霊威(れいい)を恐れ。社壇(だん)を厳(おごそ)かにし。庄園なとよせ
て。崇敬し玉ふ。今の青海。河内ハ治承に御寄
附の所。北山乃新庄ハ。文治年中。頼朝公乃寄
玉ふ所なり
▼永治二年十月天火下りて。当寺災にあへり。
本尊什具。残る所なく。焼失しぬ。宗徒の中

信證(しんしやう)といふ者霊夢に。白峯乃本尊をハはやく
造り下しぬ。渡し奉るへきとありて。夢覚めぬ其
後四国大将細川武蔵守夢想の霊ありて
白牛寺の尺迦堂にまします本尊を。当山に
移奉るへしと。永徳四年五月廿六日当寺へ渡
し奉る。此本尊は智證大師神と流来の霊木
を以作り給ふ所乃尊像。即当寺乃前像と
同時の霊像なり。前像再(ふたヽ)ひ出現し玉ふに異
ならす。其時当山光明耀(かヽや)き。人面まても
金色に見へけるとかや。応永十三年孟秋

清少納言入道常宗縁起を草(さう)し侍従宰相
行俊筆之是寺に伝へてあり
▼御廟【マダレに苗】の額頓證寺とあり。後小松院の宸翰也。
諸状二通あり▼崇徳院御自筆御自影あり
又幸仁親王の御筆乃御影もあり。天皇御弄
賞の筆。琵琶あり▼後嵯峨帝より奉献(ぶごん)
乃青磁の香爐(ろ)華瓶(ひん)宝殿に備へてあり
▼絵木仏像什具等数十件あり挙てのせかたし

青峯山根香(ねころ)寺千手院
此地は弘法大師ひらき玉ひて。千手観音を
作り。一堂を立(たて)安置し玉ひし後。智證大師
遊息(そく)し。台密(たいみつ)兼備(けんひ)の寺となり。鎮守山王権
現を祭祀す。後(のち)智證大師の徒(と)。智證の御影
をは造れり。寺に伝へて二十五條のちいさ
き袈裟(けさ)あり。木蘭色(もくらんしき)割裁(かつせつ)にぬいたり。弘法智
證両大師の中。いつれ乃所持し玉ひしともしれす
いつれに常ならすときこゆ又五寸はかりの円
鏡あり是又あやしき物となり

蓮華山一宮寺大宝院
当寺の啓迪(けいてき)年祀(し)久遠にして彷彿(ふつ)たり
一ノ宮は田村大明神と号す。即猿田(さるた)彦の命(みこと)
なり。或は人王第●(略字)七孝霊天皇乃御子とも云
貞観九年御位をすヽめらる。宮は寺の前
別に屋敷を構(かま)へたり。松樹しげく。木立物ふ
りたり。左に花(はな)の井といふ名水あり。寺乃
本尊聖観音立像長三尺五寸。寺内別に
稲荷(いなり)社(やしろ)あり。前に鐘楼あり

南面山屋島寺千光院
此寺乃濫觴(らんしやう)は孝徳天皇の御宇天平宝字
六年十月大唐楊州の鑑真(かんじん)和尚日本乃純(ちゆん)
淑(しく)を聞て来朝の時船中に於て■【貌のツクリにシンニョウ/はるか】に此
山乃瑞(すい)光のたつを見て。船をよせ登臨あり
しに。一老翁鳩(はと)乃杖をつき。出現していはく。
此山ハ七仏説法の霊区。天仙遊化乃砌なりと。
いひ忽然として形ちうせぬ。和尚さてこそ神
秀の地なれとて。去事をわすれ。仮(かり)に一堂
を営(いとな)み。所持乃普賢菩薩乃像を置法華

及華厳(けごん)経の普賢(げん)行願品を貽し置(おか)んとす。
時に二聖二天十羅刹女出現して種々の霊異(れいい)
をあらはせり。いつはつともおもハす。五十七ケ日
をそ歴てさられしとなり。然は風化(ふうくわ)高く布(しき)
招提(しやうだい)寺を創(はしめ)て後。仏舎利三粒并に菩提樹
乃数珠を送れり。それより五十年をへて。
我大師此(ここ)に至(いた)り。千手千眼乃大悲の像を。一
刻三礼にて作り玉ひて安置し。千手院と
称す

洲崎乃堂并次信墓
屋嶋寺より東坂十八町下りて麓(ふもと)に次信か
墓あり。此墓むかしより五輪の石塔あり
これに付俗に伝ふる物語歌なとあり。遠き比。
国乃太守より壱丈四方に切石にて畳(たヽ)み。
其上に長五尺乃碑(ひ)を立られたり。むかし
宋(そう)公は張良(ちやうりやう)の廟【マダレに苗】を脩(しゆ)し。謝(しや)氏ハ古冢(ちよ)を得て
祭(まつ)れり。先賢(けん)乃微意(ひい)。偉(い)人の翳然(ゑひぜん)するも
の。なんぞそれしのふべけんや。迹を撫(なて)。人を思。
義乃隆(さかん)なる事。君子の欽(つヽし)む所なり▼凡

此地を壇(たん)といひ。海浦ちかきによりて壇(だん)の
浦といふとかや。其東の渚(なきさ)に駒立岩とて那(な)
須の与市の駒(こま)を乗上(のりあけ)たるとて駒乃両足の
あとあり。又扇(あふぎ)を射(い)し時祈誓(きせい)せりとて祈(いのり)
石なといふ石あり。其南乃脇に洲崎(すさき)乃堂
あり本尊正観音大師乃御作なり
 是は順礼所にはあらすといへとも道すじなるの故にこヽに載侍る

五剣山八栗寺千手院
此山岌■【山に業】(きうぐう)とさかしく。峯三朶にわかれ。雲翠微(すいび)
をめくり。夏雪霜をふくめり。其高さハ七百余
丈。奇(き)樹繁欝(はんうつ)としげく。竹葦(い)泱■【サンズイに莽】(おうまう)とかきり
なし。むかし大師爰にのほり玉ふ時。金剛蔵王示現(しげん)
して告ていはく。此山ハ仏場に堪(たへ)たり。大徳は弘(ぐ)
法乃人なり。此に伽藍(がらん)を立。三宝を崇(あが)めバ常
に我擁護(おうご)せんと。大師これによつて。思ひを凝(とヽ)
め虚空蔵聞持乃法を勤修(ごんしゆ)し給ふ。七日を経(へ)
明星来影し。三七日に至て利剣五柄(へい)空(くう)より

降る此五剣を岩岫に埋み給ふによりて
五剣山と号す。大師千手観音を刻彫して一
堂を建(た)て安置し玉ひ。千手院といふ。此岳(だけ)に
登臨(とうりん)すれは。八国を目下に見るの故に。八国
寺と称す。大師入唐求法乃心願あり。前効(かう)
を試(こヽろ)み玉ハんとて。栗八枝を焼(やき)て此地に植(うへ)給ふ
に。忽ち生長せり。故に八栗寺と改むとなん。
中峯の峙(そはた)つ事三十余丈。是に蔵王権現を
鎮(ちん)祠し。北に弁才天。南ハ天照太神なり。麗気(れいき)
記乃中に。天照太神此嶽(たけ)に鎮(ちん)座すといふもの。

蓋(けたし)これによれるにや。是に七所乃仙窟(くつ)あり
窟中仙人乃木像(そう)を作り置り。又五所に五智
の如来あり。中央(おう)に丈六乃大日如来を大師
岩面に彫(ゑり)付給へり阿■【モンガマエに人みっつ】(しく)。宝生。弥陀。尺迦。の四
仏各(おの々々)四方にあり。中区に大師求聞持を修(しゆ)
し給ふ窟(いわや)あり。是を奥(をくの)院と号す。寺より
のほる事四町はかり也。此窟中大師(し)御影を
置。其前の大岩に孔(あな)あり明星影向の所といひ
伝ふ。本堂の傍(かたはら)の岩洞(とう)に不動明王の石像あり
大師(し)作り玉ひて。此にて護摩(ごま)を修し玉ふとや。

窟中一丈四方に切ぬき三方に九重の塔五輪
なと数多切付たり寺の後(しりへ)に阿伽(あか)井あり独■【月に古/鈷カ以下同】(どこ)
水と号す大師独■【月に古】をもて加持し玉ひしかば
岩(いは)忽(たちま)ちにひらけて。清水迸(ほとはし)り沸(わく)によりて
名(なつ)くといへり。又寺の後に蓬莱(ほうらい)岩といふ岩あり
其形ち宝珠乃ことし其うしろの上の峯に
明星(しやう)穴(けつ)といふ岩穴二つあり。回(めぐ)り三尺はかり也
▼昔乃堂ハ兵乱に焼失して今の堂ハ松平
頼章公の建立なり頗(すこふ)る輪奐(りんくわん)をきわめたり
正五九月十七日より七日の間開帳あり

堂乃わきに鐘あり▼門には多聞持国長五
尺乃像を安ぜり▼什具ハ兵乱に失せり大師
諸岩窟をほり玉ふ時乃鑿(のみ)とて二枚残れり
▼凡そ此山東北ハ溟海■【サンズイに亶】漫(たんまん)とひろくして狂濤
鼓揚(くやう)し西南ハ遙に開けたり。邑(ゆう)屋林泉相接(まじ)
ハれり。此寺いにしへ隆(さかん)なりし時。牟礼大町に
末院四十八ケ寺ありとなん。今は唯一両寺
のこれりとそ

補陀洛(ふたらく)山志度寺清浄光院
此寺乃草創(さう々々)行基ぼさつときこゆ。本尊乃
みそ木もと江州朽木(くちき)谷より流れ出。所々に
て引上んとするに皆たヽりありて捨流し
継躰(けいたい)天王十一年此浦へ寄(より)けるを。園(その)の子尼
といふ人。念珠をして引上しを。推古天王三
十三年に補陀洛より観音影向ありて即
今の尊像に作らせ玉ふとなり。故に補陀洛
を山号とせり。志度は所の名を寺号と
せるにや。縁起に初めハ死度と出し子細ありと

きこへたり予縁起を見ざるか故にしらす
此所を房前浦(ふささきうら)といふとかや。寺前ハ市廛(してん)に
往(おう)来し堂後は海浜(ひん)を眺望(てうほう)す。八栗(くり)山は
雲上に聳(そび)へ真珠(しんしゆ)嶋は浪中に浮(うか)へり
境内廣く構(かま)へ林泉相清(きよ)し▼高堂ハ閻魔(えんま)
王乃告(つげ)の事ありて作るとなん。故に本堂
観音に相つぎ閻王をたうとむとなり。当
寺の閻(ゑん)王の像ハ常に異(ことな)り。首(かしら)ハ十一面観音
也閻魔観音一体乃義(き)といひ。又ハ閻王本尊
を戴(いたヽ)き給ふなともいへり。いつれに合体(がつたい)の心

ならんかし▼当寺に縁起七巻同図絵あり
▼御衣木記一巻  兼空上人筆
▼玉贈玉取淡海房前行基伝記一巻  相良殿筆
▼白杖童子記一巻  世尊寺行房卿筆
▼当願暮当記一巻  兼空上人筆
▼阿一上人蘇生記一巻  相良正任筆
▼千歳童子蘇生記一巻  兼空筆
▼松竹童子蘇生記一巻
右各(をの々々)図絵あり就中御衣木(そき)乃画者(がはしや)土佐(とさ)将
監(しやうげん)とや其外ハ土佐流乃筆。各幅にありとや

右記乃中に大織冠(しよくわん)へもろこしより玉を送り
ける時。此房前(ふささき)浦にて難(なん)風にあひて。其玉を海
に沈めしかは。淡海公これを歎(なげ)き此浦にいたり
三年を送り。海士(あま)乃娘(むすめ)に情をかけられしにより。
海士(あま)龍闕(りうけつ)万重の中に入。玉を得(ゑ)し事。世の伝(つた)
へいふ所なり。房(ふさ)前の大臣(じん)は彼間海士(あま)の産生(たんしやう)
せる子(こ)なりし事を。十三歳乃時しりて後行
基ぼさつを引ぐして。此浦に来り海士の為(ため)
に法華乃八講(こう)をそとりおこなハれ。それより
毎年十月十七日より廿三日まて。その法事有

近年は僧徒(と)おほからされハ。其規則(きそく)を存する
まてときこゆ。堂前乃石塔ハ即(すなはち)海士の為(ため)に
立る所なり▼園乃子尼の堂は町の中にあり。
天野の里と云なり其近き程に堂林と云所海士乃
住(すみ)し所とかや。真珠嶋は玉を得て海士引上ケ
たる所となり。真珠嶋と云事むかし是より大きなる
真珠出たる故に此名(な)ありなといふ説あり。世乃あや
しむ事あり。今は論(ろん)する所にあらす▼行基ほ
さつ乃歌とて伝るあり▼塩満(しほみち)てしまの数
そふふささきの入江々々乃松の村立

補陀洛山長尾寺観音院
此寺はもと聖徳太子開建(けん)ありしを。大師(し)
霊(れい)をつヽしみ紹隆(しやうりう)し玉ふといへり。本尊観
音立像長三尺二寸大師(し)乃作也。又阿弥陀の像
を作り傍(かたはら)に安(あん)じ玉ふ。鎮守天照太神なり。さし
入に二王門あり。寺の前遍礼(へんろ)人乃寄宿(きしゆく)所有。
むかしは堂舎雲水彩翠(さいすい)かヽやき。石柱(ちう)龍蛇(りやうじや)拱(けう)
せしかども。時遠く事さりて。荒蕪寥々とし。
香燭しば々々乏(とぼ)し。慶長乃初比とかや。国の守
生駒氏。名区(めいく)の廃(すた)れる事を惜み。再興あり

医王山大窪寺遍照光院
此寺は行基菩薩ひらき玉ふとや。其時大師興(こう)
起(き)して密教(みつけう)弘通(ぐつう)乃道場(じやう)となし給へり。本尊ハ薬
師如来座像長(たけ)三尺に大師作り玉ふ。阿弥陀堂ハもと
如法堂也是ハ寒(さん)川の郡幹(ぐんかん)藤原ノ元正乃立る所也
鎮守権現并弁才天祠あり▼大師堂。国乃かみ吉
家公建立(こんりう)し。民戸をわけて付られしとなり
▼鐘楼鐘長四尺五寸是も吉家乃寄進(きしん)なり
▼多宝塔去寛文乃初まてあれしかと仆(たを)れたり
▼むかしは寺中四十二宇門牆(しやう)を接(まじ)へたりと皆旧墟有

▼奥(おくの)院あり岩窟なり。本堂より十八町のほる。本
尊阿弥陀。観音也。大師此所にて。求聞持修行
あそはされし時。阿伽とぼしけれは独■【月に古】(とこ)をもて
岩根(こん)を加持し給へは。清華ほとばしり出となり
炎旱(ゑんかん)といへとも涸渇(こかつ)する事なし。又大師いき木
を率都婆(そとは)にあそばされ又字もあざやかにあり
しを。五十年以前。野火こヽに入て。いまは
木(き)かれぬるとなり。本堂より五町東に弁才天有。
此寺むかし隆(さかん)なりし時四方の門遠く相隔(へたヽ)れり
東西南北数十町とかや今に其しるしありとや

 此一巻■【金に侵のツクリ】賃檀主。大坂西国町崕■【工に公/木に公の松カ】寿。立売堀小倉屋清兵衛。道頓堀阿波
 屋伝吉。同所阿波屋茂兵衛(為浄雲效宥永保可善)。同所天満屋三郎兵衛。阿波屋浄光。
 阿波屋九兵衛為浄三妙三妙雲。淡路屋太兵衛。淡路屋作兵衛為貞寿妙玄。小松屋
 吉左衛門為妙性。大和屋清三郎為存清寂玄。紀州東家中嶋利右衛門。讃州牟礼村
 岡市郎右衛門。道頓堀荒屋久兵衛咸
       
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