四国遍礼霊場記
 
▼五台山金色院竹林寺(三十一番)
 

 
 長岡郡にある。聖武天皇に夢のお告げがあり、行基菩薩に勅命し山を検察させ、神亀元年に堂舎を建立した。行基が七日間霊瑞が現れるよう祈ったところ、夜明けに一つの星が机の上へ落ちてきた。行基は赤栴檀で五髻文殊像を作り、星を眼精とした。
 五台山とは辰旦の清涼山を指す。文殊がいまし、霊験著しい。山には五峰が聳え、菩薩の頭の五髻を象っているという。この山も五色の峯が峙ち、清涼山と同様だ。このため、五台山と号する。
 行基菩薩は、五台山に棲む文殊の化身だという。南天竺の菩提、婆羅門僧正と呼ばれている人物は、中国・五台山の文殊が霊験あらたかだと聞いて、故郷を出て小舟で唐に赴いた。五台山に登って、一人の老翁に会った。老翁は、文殊が日本に生まれ衆生を救済している、と教えて消えた。菩提は日本に向かった。天平八年七月、聖僧の来朝を行基が奏上した。聖武天皇は礼部・鴻廬・雅楽の三官人に命じて難波津に向かわせた。行基は百人の僧侶を率いて待った。官人は楽を奏し、行基らは宗教詩を歌った。すぐさま海に小舟が現れた。菩提は舟から下り、行基と対面した。行基は微笑み、菩提は旧知のように行基の手を取った。梵語で会話したため、理解できる者はいなかった。「霊山の釈迦の御前に契りてし真如朽ちせず相満つるかな」と日本語で歌った。菩提は「伽毘羅衛に共に契りし甲斐ありて文殊の御顔相見つるかな」と返した。この話は色々な本に載せられており、異説を挟む人はない。この寺が霊境であると信ずるに足る伝承だ。【この部分の描写は今昔物語巻十一「婆羅門僧正為値行基従天竺来朝語第七」と同様。また、謡曲の「巻絹」の題材ともなっている。性空の「南天竺婆羅門僧正碑註」では、婆羅門僧正は中国に来ていたところ、日本からの留学僧に乞われて来朝したとある。六世紀に伝来し紆余曲折を経た日本仏教が立場を確立する始点は、恐らく東大寺建立であつた。この東大寺大仏開眼供養の導師を、婆羅門僧正は務めている。また、伊勢神宮と並んで高い格式を誇った八幡神は、東大寺の守護を申し出た仏教守護の神でもある。このため、「大菩薩」の称号を得て、僧形の像が作られている。一般に本地仏は阿弥陀如来とされている。空海との縁も深い】。
 五峰を、東岱・南衡・西華・北恒・中嵩と称する。辰旦五嶽からとったものだ。尚書大伝に載っており、白虎通・風俗通などに詳しく記されている。今の名は知らない。
 北西に池が三つある。感覚や知覚は対象としたそのものが自分の裡に展開しているのではなくあくまで投影されたものだから空であり形もないと悟り心に作為を用いない三解脱門の境地、宇宙法則を理念型として表す法身・個別事象を体系的に分析する法則である報身・実際に個々の人間を救済しようとする行為である応身の三身、仏・法・僧という仏教の三構成要素、これらの「三」を象徴しているという。寺はそれぞれ、このような数合わせをするものだ。真言宗の常套である。
 延暦末年、戦争によって掠奪を受け、長い間荒廃した。弘仁年中に空海が嘆いて中興した。境内に水が乏しかったので、独鈷杵で加持すると清水が迸り出た。独鈷水と呼ぶ。
 興廃が何度か繰り返され、定まった堂宇はなかった。現在残っているものは、本堂左の開山堂。ここには行基の像を置く。池の中にある弁財天祠。続いて鎮守の山王権現には拝殿もある。右には大師堂、前には拝所。続いて三重塔、ここの本尊は大日如来像。鐘楼。入った所に二王門を設けている。門外には牛王堂、行基の作った大威徳明王像を安置している。本坊の持仏堂には、南無阿弥作の阿弥陀如来、恵心【天台僧だが念仏による極楽浄土への往生を提唱した浄土教系の遠祖・源信】作の千手観音、春日【春日神社と関係のある仏師一派。作品は春日明神が作ったものと見なされるともいう】作の勢至菩薩を併せ祀っていたと思う。
 このような由緒正しい寺も、昔数回壊され、近世でも寛永二十年元旦の夜に天火が飛来して堂宇が燃え、どうにか本尊は持ち出したが、ほかは法具も書物も、すべて焼けてしまった。国の太守が嘆いて堂舎の多くを新築した。
 山の麓に吸江寺という禅寺がある。夢想国師が開いた。自筆の肖像画もある。この禅師は泉石を賞翫する癖があり他にも幾つか名園を残しているが、吸江寺は一際見事で十景の名がある。どうせ美景を謳った詩もあるだろう。
                      
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