四国遍礼霊場記
 
▼稲荷(四十一番)
 

 
 宇和郡登賀利村にある。社が鎮座した年代は詳しく分からない。この神は、空海と筑紫で出会い、後に紀州の田辺でも出会った。空海が名を問えば、京都八条の二階堂柴守長者だと答えた。大師は、自分が与えられた東寺は近所なので、守護してほしいと頼んだ。後に神が東寺を訪れたとき、空海は饗応し法事など行った。稲荷山に小さな社を建て、祀った。額を書いて懸けた。二階堂は、現在の御旅所となっている。この神は稲を荷として担いでいるので、稲荷と呼ぶ。筑紫でも紀州でも巳の日に空海と稲荷が会ったので、巳の日を縁日にすると伝えられている。
 一説には元明天皇の時代、和銅年中に神稲荷山に示現した。宇賀姫といって、五穀の祖神であり豊饒を司る。また飯成とも書く。だいたい神道の説は、記紀の神代に載る神に取り合わせようとするものだ。しかし、はっきりしたものは少ない。天照太神から神武天皇まで二百三十四万余年間の事跡が何も伝わっていない。八幡神とされる十六代応神天皇の時代に至って、百済から論語などが渡来した。初めて異国の教えに接し、仁義という言葉を知った。人々の願いに応じて、聖徳太子が出現し、日本の言葉と漢字を繋ぎ合わせ、儒教を人々に学ばせ、神道を称え仏教を興し、両者の裡は根本では一つだと考えた。神聖な者でなければ、このようなことは出来ない。これ以前に日本で道義を語る者はいなかった。唐の周公や孔子と並び称すべき人物だ。以後、神道を説く者で、仏教に触れない者はなかった。ところが近世、神道でも宋朝派儒教の他者排除病に罹って、神道に意見を刷り込ませ仏教を排撃するよう謀り、色々な嘘を言い募っている。あるいは儒教の鬼神論を緩用して、元々の日本の神を滅ぼそうとする腐った流儀もある。自己の執着による妬みによって自分の最も大切な深部を忘れて、国の禁制を破り愚かな者を惑わす族もいる。私の説によって虚説を引き、体系的に語ることはない。おおかたは我流の、仏教をよこしまに排除し神社にあらぬ言い掛かりをつけているだけだ。現在の稲荷社では、空海を嫌って新説を作っているが、典拠はない。
 社は久しく荒廃していた。図の通りである。道清という者が人々に声を掛け、社と二寺を再興した。
 
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