四国遍礼霊場記
 
四国遍礼霊場記巻二

讃州下

弥谷寺、金倉寺、道隆寺、道場寺、崇徳天皇、国分寺、白峯寺、根香寺、一宮、屋嶋寺、洲崎堂附次信墓、八栗寺、志度寺、長尾寺、大窪寺

▼剣五山弥谷寺千手院(七十一番)
 

 
 もとは行基菩薩の開基。この山の霊験を見た大師が登って求聞持修行をしていたとき、空から五柄の宝剣が降ってきたため、剣五山と号する。また、剣の御山とも呼ぶ。「五」と「御」は同じ「ご」だから、転訛したのだろう。山の南側は開け、東・北・西には三朶の峰が聳えている。そのうち中岫に空海は登り、岩屋を掘り仏像を彫刻した。本堂の岩屋から造り始め、壮麗な堂宇とした。
 本尊は空海作の千手観音像。このため千手院と号する。本尊の脇士は不動と毘沙門天像。護摩の岩屋には、二間四方の石段の上に、不動明王・弥勒菩薩・阿弥陀如来の像を安置している。脇の石段には、高野山の道範阿闍梨の像がある。道範が讃岐に流罪となったとき、この寺の住持に頼まれ、行法肝要抄を撰した。奥書に記されている。この住持が道範像を作ったものだろうか。
 聞持窟の大きさは九尺と二間で、内部の壁面には五仏・虚空蔵菩薩・地蔵菩薩などを彫りつけている。また、空海が自分の両親を阿弥陀如来と弥勒菩薩になぞらえ造った石像がある。今の参詣者は、阿弥陀・弥勒と思わず、ただ空海の両親として拝んでいる。空海の御影もある。もと木造であったものを、石像に作り替えた。石窟の前には四間・六間の拝堂を、南向きに懸け作っている。本堂の左側の岩壁に、阿弥陀三尊の六字名号九行を、空海が書き付けいている。
 空海が登ったとき、蔵王権現が示現した。このため空海は、高さ七八尺の蔵王権現像を彫って、寺の鎮守として祀った。恐ろしい形をしている。この辺りの岩には梵字の阿を彫っていたり、五輪塔・阿弥陀如来像などがあって、訪れる人の目を驚かせている。この山で目につくところ、足の踏むところには必ず仏像がある。このため仏谷と号し、仏山と呼んでいる。護摩窟の下方に鐘楼がある。住持の坊は中腹にある。斜めになっている石段の両側にも、石仏が多い。三町ほど下に二王門を構えている。少し左には、石窟の薬師堂がある。
 東南の高峰は飛び出た岩の頭すべてが五輪であり仏像だ。その数は幾千あるか分からない。
 この山は崖が切り立ち屹立して肩を並べる山がない。霞を食べ風に乗る仙人でもなければ、簡単には上れないだろう。雲霧がつねに起こり、霊木・異草が茂り、岩を伝う泉の水が清らかだ。心が浄化され、嗜欲が消えていく。
 峰に登れば周囲に八国を見渡せる。このため八国寺と呼ばれている。近郷の人は、この山に登ることを、「八国する」という。いつの頃からか「弥谷(やこく)」と書くようになった。「弥(や)」と「八(や)」、「谷(こく)」と「国(こく)」は、相通じている。また、山号院号寺号まで八栗寺と同じで、行状記に載せる記事も同様だ。ただし行状記は内容に誤りが多く、典拠とするには値しないのだが。とはいえ、山の霊気も同様であり、この寺と八栗寺は、確かに分かちがたい。
 この寺には多くの宝物があったが、数回にわたって賊に奪われてしまい、残っているものは少ない。そのうちにも珍しいものが一つある。空海が持っていた紫銅の鈴である。回りに四天王を、それらの間に三鈷杵を彫りつけている。見る人を驚かせている。
                  
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