四国遍礼霊場記
 
四国遍礼霊場記巻一

讃州(香川県)上

善通寺、出釈迦寺、曼荼羅寺、甲山寺、本山寺、観音寺、琴弾八幡、小松尾寺、雲辺寺、金毘羅

▼五岳山誕生院善通寺(七十五番)
 

 
 多度郡屏風浦にある。空海の著した「三教指帰」に「玉藻所帰之嶋橡樟蔽日之浦【玉藻なすところの島、橡樟、日を覆うの浦】」とある場所だ。空海の父まで代々伝わった荘園だった。父は佐伯氏で、名を善通という。佐伯氏は、景行天皇の皇子・稲背入彦を出自としているらしい。外敵に攻め勝った褒賞として与えられた土地だ。佐伯姓は、孝謙天皇の時代に朝廷から与えられたという。母は、阿刀氏。
 二人に託され空海は、この世に生まれ落ちた。空海が幼少の時分に遊んだ場所は、霊場として幾つかが残っている。唐で仏教を学び帰って、両親・祖先の供養と人々の救済のため、此処に寺を建てた。
 山号の五岳は、近くに香色・筆・出釈迦・中山・火上の五峰が聳えるところから付けた。寺号の善通は、父の名から直接に付けた。院号の誕生は、空海が生まれた場所だからだ。
 昔の伽藍は、空海が学んだ唐の青龍寺を倣っていたという。道範阿闍梨の記す所に拠れば、金堂は一辺七間の二層構造で、間にくびれた部分があるため、よく見ると四階建てあった。高さ一丈六尺の薬師三尊・四天王像を、空海自ら作って安置した。これらは埋仏で、納めた壁面に前仏として薬師三尊を浮き彫りにした。護摩堂は一辺七間で、空海自作の釈迦如来像を安置した。二重の宝塔には、空海自筆の自画像を納めた。この自画像は、空海が唐へ向かうとき、旅中の危険を思って哀しむ母を慰めるため、描き残したものだ。これは告面の孝を自画像で尽くそうとしたのだ【礼記の曲礼上第一。孝子の為すべきこととして、「出必告反必面/出ずるに必ず告げ帰りて必ず顔を合わす」とある】。西行の記す所に拠れば、善通寺の御影の傍に御師【釈迦如来カ】も一緒に描き込まれていた。道範阿闍梨は空海の御影を見て、次の詩を詠んだ。「世に出でて自ら留める影よりぞ 入りにし月の形をも見る」
 空海が生まれた場所は、山の根の部分であった。西行が此の地に来たとき、空海の生まれた場所には囲いがしてあり、松を植えていた。「哀れなり 同じ野山に立てる木の かかる印の契りありけり」「岩にせく閼伽井の水のわりなきは 心澄めども宿る月かな」西行作。道範の記述に拠ると、空海の生まれた場所には、石畳を高く広く積んでいた。今は七重の如法塔がある。道範の歌に「高野山 岩の室戸に澄む月の麓より出でける暈は」とある。
 また、道範の記述に拠ると、この寺は二町四方で、色々な堂舎があった。宝塔・灌頂堂・護摩堂が多く並んでいた。事物の興廃は、世の常である。この寺も例外ではない。西行や道範の時代までは創建当時の伽藍があったというが、今では跡が残っている程度だ。現在の大師堂は、空海が生まれた場所に建っているという。
 空海が幼少の頃に遊んだ場所が、みな遺っている。遊墳仙遊原、四王執蓋地、捨身誓願岳などと呼ばれている所だ。
 西行の歌集に、「大師の住んでいた場所の近くに庵を結んでいた頃、月が皎々と明るく海の方が曇りなく見渡せたことがあった」と詠んでいる。「曇なき山にて海の月見れば 島ぞ氷の絶え間なりける」である。また、侘びしい庵住まいのうちに、「今よりは厭わしめ命あればこそ かかる住居の哀れをも知れ【今よりは厭わじ命あればこそ……】」と詠んだ。更に、庵の前に立つ松を見て「久しに経て 我後の世を問へよ松 跡偲ぶべき人も無き身ぞ」。写本の系統に依っては、下の句を「跡慕ふべき人も無き身に」と伝えている。西行が歌った松は、今でも南大門の西脇に立っているという。西行松と呼ばれている。道範は聞いて、「契り置く西へ行きける跡に来て 我も終わりを松/待つの下露」と詠んだ。
 空海が修行した御道行所は我拝師山といって、五岳の一つである。現在では善通寺とは別に出釈迦寺としている。我拝師山については、出釈迦寺の項で触れるため、ここでは詳しく書かない。
 天皇家・将軍家の崇敬が代々篤い。天皇・上皇の公的文書が二十余通、将軍家からの寄進状が多く遺っている。昔は荘園も多くあり、学問・修行に打ち込む僧侶たちが犇めくほどだった。天皇の要請で行われる法事などもあったようだ。鎌倉幕府の公的記録「吾妻鏡」には「貞安二年三月十三日に、讃岐国善光寺の荘園であった場所に鎌倉の御家人が領主として入り込み収穫を取り上げてはならない、との命令が出されている。将軍家が祈祷をしていた期間でもあるから、弘法大師が生まれた場所に立つ由緒正しい寺の権利を侵してはならない、との理由だった。しかるに近年は、善通寺の私有地に鎌倉幕府から任命された地頭が赴き収穫を取り上げている。寺の財政に事欠くようになったため、原状に戻してほしいとの嘆願書が届いた。特に許して、鎌倉幕府は地頭の任を解いた」とある。
 後嵯峨上皇の陵が、この寺にある。後宇多上皇と亀山上皇が陵の左右に石塔を奉納している。亀山上皇は自ら筆を執り、紺色の紙に金泥で法華経と結経である観普賢経を写し、後嵯峨上皇の陵に奉納した。現在も遺っているという。
 寺宝には、以下のようなものがある。空海の袈裟二十五条。空海の鉢と錫杖。空海の母が作った一字一仏の法華経序品仏像、字は空海が書いた。西行は当時、「空海直筆であろう四つの門の額は少し割れているものの無事といってよいが、後世にはどうなっていることだろう」と心配している。道範の時代には、半分の二枚しか残っていなかった。善通寺と書かれていたという。ある書に載っている話を紹介しよう。昔、陰陽博士の安倍清明が、縁あって讃岐に下ったときのことだ。清明は、使鬼神/式神に火を灯させて夜道を歩いていた。善通寺の前に差し掛かると、火が消え使鬼神の姿も見えなくなった。通り過ぎると、再び使鬼神が現れ火を灯した。清明が尋ねると、使鬼神は寺の額を四天王が守護していたため恐れて、違う道を通ったのだと答えた。
 鎮守は、空海の氏神である八幡宮。ご神体は、空海の作。
 真雅僧正は、空海の弟なので当然、此処に住んでいた。後に遍照院の寛朝僧正、延命院元杲、小野の仁海、宥範、宥源、宥快らといった、徳の高い僧侶たちが、此処で過ごした。道範阿闍梨は、仁治四年の春、無実であるのに罪に問われ讃岐に流罪となった。空海の遺跡を慕敬して、寛元三年九月に善通寺へと移った。多くの書物を著した。浄土宗の祖・法然上人も讃岐に流罪となったとき、空海の遺跡を拝むことができると喜んだ。
 この寺の寺務は元々東寺長者が兼務していた。後宇多上皇の時代以後、後嵯峨の門主が五六代続けて寺務を執った。その後、唐橋親厳僧正が寺務に就いたため随心院門跡の管掌となった。
 五岳の一つ筆山の名称に関わる西行の歌がある。「筆の山 掻き/書き登りてもみつるかな 苔の下なる岩の景色を」
 

・・・・・・・・「三教指帰」四国関連部分・・・・・・・

前略……余年志学、就外子阿二千石文学舅、伏膺鑽仰、二九遊聴槐市、拉雪蛍於猶怠、怒縄錐之不動、爰有一沙門、呈余虚空蔵聞持法、其経説、若人依法、誦此真言一百万遍、即得一切教法文義諳記、於焉、信大聖之誠言、望飛焔於鑽燧、躋攀阿国大龍嶽、勤念土州室戸崎、谷不惜響、明星来影、遂乃朝市栄華、念念厭之、巌藪煙霞日久飢之……後略【三教指帰序文】
前略……仮名大笑曰……中略……是汝与吾、従無始来、更生代死、転変無常、何有決定縣親等、然頃日間刹那、幻住於南閻浮提谷、輪王所化之下、玉藻所帰之嶋橡樟蔽日之浦、未就所思、忽経三八春秋也【三教指帰巻下仮名乞児論】

 ちなみに今昔物語巻第十一の「弘法大師渡宋伝真言教帰来語第九」に「或ハ阿波ノ国大龍ノ嶽ニ行テ虚空蔵ノ法ヲ行フニ大ナル剣空ヨリ飛ビ来ル。或ハ土佐ノ国ノ室生門崎ニシテ求聞持ノ行ヲ観想スルニ明星口ニ入ル」とある。また、この段に「三鈷杵」の話もあり、同巻の「弘法大師始建高野山語第二十五」に繋がっていく。

・・・・・・・・西行「山家集」四国関連部分・・・・・・

 讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡たづねけれど、かたも無かりければ
「松山の 波に流れて 来し舟の やがて空しく なりにけるかな」
「松山の 波の景色は 変らじを かたなく君は なりましにけり」
 白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに、まゐりて
「よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん」
 同じ国に、大師のおはしましける御辺りの山に、庵結びて住みけるに、月いと明かくて、海の方曇りなく見えければ
「曇りなき 山にて海の 月見れば 島ぞこほりの 絶え間なりける」
 住みけるままに、庵いとあはれにおぼえて
「今よりは いとはじ命 あればこそ かかるすまひの あはれをも知れ」
 庵の前に、松の立てりけるを見て
「久に経て わが後の世を とへよ松 跡しのぶべき 人もなき身ぞ」
「ここをまた われ住み憂くて 浮かれなば 松はひとりに ならんとすらん」
 雪の降りけるに
「松の下は 雪降る折の 色なれや みな白妙に 見ゆる山路に」
「雪積みて 木も分かず咲く 花なれや ときはの松も 見えぬなりけり」
「花と見る こずゑの雪に 月さえて たとへん方も なき心地する」
「まがふ色は 梅とのみ見て 過ぎゆくに 雪の花には 香ぞなかりける」
「折しもあれ うれしく雪の 埋むかな かき籠りなんと 思ふ山路を」
「なかなかに 谷の細道 埋め雪 ありとて人の 通ふべきかは」
「谷の庵に 玉の簾を かけましや すがる垂氷の 軒を閉ぢずば」
 花まゐらせける折しも、折敷に霰の散りけるを
「樒おく 閼伽の折敷の ふち無くば 何にあられの 玉と散らまし」
「岩に堰く 閼伽井の水の わりなきに 心すめとも 宿る月かな」
 大師の生まれさせ給ひたる所とて、廻りの仕廻して、そのしるしに、松の立てりけるを見て
「あはれなり 同じ野山に 立てる木の かかるしるしの 契りありける」
 またある本に曼荼羅寺の行道所へ登るは、世の大事にて、手を立てたるやうなり。大師の、御経書きて埋ませおはしましたる山の峯なり。坊の外は、一丈ばかりなる壇築きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しおはしましけると、申し伝へたり。巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻されたり。登るほどの危ふさ、ことに大事なり。構へて這ひまはり着きて
「めぐり逢はん ことの契りぞ ありがたき 厳しき山の 誓ひ見るにも」
 やがてそれが上は、大師の御師に逢ひまゐらせさせおはしましたる峯なり。わがはいしさ、と、その山をば申すなり。その辺の人は、わがはいし、とぞ申しならひたる。山も字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。遠くて見れば、筆に似て、まろまろと山の峯の先のとがりたるやうなるを、申し慣はしたるなめり。行道所より、構へてかきつき登りて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡と見ゆ。苔は深く埋みたれども、石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて
「筆の山に かき登りても 見つるかな 苔の下なる 岩の気色を」
 善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師書き具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。四の門の額少々われて、おほかたは違はずして侍りき。末にこそいかがなりなんずらんと、おぼつかなくおぼえ侍りしか

・・・・・・「吾妻鏡」関連部分・・・・・・・・・・・・

(安貞二年三月)十三日△今日被停止讃岐国善通寺領之地頭職畢。是弘法大師御誕生之地。長日不退御祈祷之砌也。本仏則大師御自作釈迦薬師像云々。而近年被補地頭於彼領之間、寺用闕如之旨、依捧歎状、殊有其沙汰被止之云々。

ちなみに前月・二月七日条に、「将軍家御衣、鳶糞令懸給之間、有御占。御病殊之由申之云々」とあるので、神仏を敵に回すことを恐れたか。
         
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