四国遍礼霊場記
 
▼熊野山石手寺(五十一番)
 

 
 温泉郡にある。近郷最大の立派な伽藍で、壮麗な建物が所狭しと並んでいた。柱に施した彫刻が流麗として連なり、珍しく美しい玉を垂れていたという。寺の草創として、元明天皇の時代、郡の大領・玉奥が和銅五年壬子年二月申辰日に白山権現を勧請したことが古い記録にあるいという。しかし白山権現は養老元年、越州の泰澄が登り思いを凝らして初めて現れた神だ。泰澄に先だって勧請したとは、疑わしいことだ。
 聖武天皇の神亀五戊辰の年、勅命を発して伽藍を建て、郡大領・玉純が天平元己巳年三月八日に薬師如来像を作って安置した。行基菩薩を招いて開眼供養した。孝謙天皇の勝宝七乙未年、三解脱門や東西の総門・韋駄天宮を建立し、勅命によって大般若経を与えられた。それまで法相宗であったが嵯峨天皇の時代、弘仁年間に真言宗の道場となった。当時の住持は、良賢であった。
 寺が真言宗に属した時代、伊豫浮穴郡花原の村に、右衛門三郎なる者がいた。四国の中でも屈指の長者であった。貪欲で倫理を解せず、神仏の教えに背いていた。男の子が八人いたが、八日の間に八人ともが急死した。異説もある。このことによって人様のことを思い遣る心が芽生え、神仏の存在を信じるようになった。出家して、霊場を巡礼した。阿波・焼山寺の麓で、鬱屈を抱きながら死の床に伏した。空海が通りかかり、右衛門三郎が菩提心を起こしたことに感激して、死出の願いは何かと問うた。三郎は、伊豫で河野家が最大の富を持っているから、河野家に生まれたいと願った。空海は、小石に右衛門三郎と書き付けて握らせた。三郎は死に、葬られた。塚が残っている。時が経ち、国司・河野家に男児が生まれた。左手に、件の石を握り締めていた。右衛門三郎の後身であると人々は覚った。男児は息方と名付けられた。
 ところで、輪廻転生といえば、羊■【シメスヘンに古】と円沢の説話が有名だ。
 「■【シメスヘンに古】年五歳、時令乳母取所弄金環、乳母曰汝先無此物、■【シメスヘンに古】即詣鄰人李氏東垣桑樹中探得之、主人驚曰此吾亡兒所失物也、云何持去、乳母具言之、李氏悲【■リッシンベンに宛】、時人異之、謂李氏子則■【シメスヘンに古】之前身也、又有善相墓者、言■【シメスヘンに古】祖墓所有帝王氣、若鑿之則無後、 ■【シメスヘンに古】遂鑿之、相者見曰猶出折臂三公、而■【シメスヘンに古】竟墮馬折臂、位至公而無子」(晋書巻三十五列伝第四羊■【シメスヘンに古】伝)
 中国の晋代、偉大な政治家・軍人として知られた羊■【シメスヘンに古】は五歳のときに、不思議なことを起こした。ある日羊は、「いつも玩具にしていた金環を持ってきて」と乳母に頼んだ。乳母は、「そんなもの持っていたの」と訝った。羊は、隣の李宅の東垣に生えている桑の木まで行った。木の中を探って、金の指輪を取った。李氏が驚いて言った。「私の死んだ子が持っていた金環だ。失くしたものだと思っていたが、どうしたのだ。どうして持っていく」。乳母は「だって、これ、ウチの坊っちゃんが、いつも遊んでいる金環でしょ。そう言ってたわ」。羊を見詰めていた李は、何故だか悲しみと愛おしさが込み上げてきた。羊を抱き締め、声を上げて泣いた。当時の人々は、話を聞いて不思議がった。前世で李の子供であった羊が、自分で隠していた金環の在処を覚えていたのだ。また、墓占いに巧みな者が、羊の家の墓を見て言った。「この子には、帝王の気が見られる。しかし、墓を傷つけたりしたら、跡継ぎが生まれなくなるぞ」。羊は墓を傷つけた。卜者は傷ついた墓を見て言った。「おやおや、坊やは外出して骨折しちゃうぞ」。羊は落馬し骨を折った。後に王に次ぐ官位・公まで昇進するが、跡継ぎは生まれなかった【以上、意訳】。

 また、「南嶽總勝集」【大正新脩大蔵経所収】などにも載せる、「三生石」の説話は、色々に伝わっているが、おおよそ次のようなものだ。
 人間の転生を見せ付ける僧が、唐代に現れた。名を円沢という。また唐の都・洛陽に、李源という者があった。父は官に就き東都を守っていたが、安禄山の乱で殺された。李源は国家というものに嫌気が差し、酒色に溺れて過ごした。しかし放蕩に虚しさを感じたか、全財産を慧林寺に寄進し堂宇を修復、自らは寺に寄宿した。二人は慧林寺で出会った。共に音楽的才能に恵まれていたため、馬が合った。暇さえあれば、膝を交えて詩文・音楽談義に耽っていた。
 幾年か経ち、二人は共に西部の蜀へと行こうとした。どこを通るかで意見が割れた。円沢は、古都・長安を回って行かなければ困ると懇願した。嵋峨山に薬を取りにいくため渓谷を通ろうとする李源は、言い返した。「俗世を捨てているべき僧が、華やかな都会に行くとは何事か」。言い負かされて円沢は、李源が勧める道を採った。暗澹たる表情をしていた。荊州に至り、将進峽を通り掛かった。女性達が色っぽい衣装で、水を汲んでいた。円沢は涙を流し、「恐れていたことが起こってしまった。彼女を目にするとは」、と悲しんだ。李源は訝った。「旅の途中で同様の女性を他でも見かけた。ここで何故、驚き嘆くのか」。円沢は答えた。
 「私は、仏の説く輪廻転生を、この世に示す運命を与えられている。女性たちの中に王氏の娘がいる。胎児を宿して三年が経つ。この胎児こそ来世の自分なのだ。私が、母となる女性を見ないうちは出産しない定めであった。しかし私は、彼女を見てしまった。子供は三日後に生まれる。それは即ち、私の死を意味するのだ。李源よ、私が早く再生するよう祈れ。そして、ここから少し進んだ所で宿をとり、数日を過ごしてくれ。私が死んだら、山の麓に葬るように。三日後、王の家を訪ね、生まれた子供に微笑みかけてくれたまえ。生まれ変わった私が、微笑み返そう。それで、嬰児が私であると分かるだろう。また、十二年後の仲秋の月夜、杭州・天竺寺の前に来てくれ。私も行く」。
 この道を強いて円沢を死に追い遣ることになった李源は、深く後悔し悲哀の海に沈んだ。二人は、件の女性に話しかけ、もうすぐ子供が生まれるとだけ告げた。女性は喜び家に帰った。親戚が集まった。魚を捉え酒を汲み、川の神を祭った。朗らかな宴の声が李源らの宿所にも伝わってきていた。円沢は沐浴し、新しい衣に替えた。座禅を組み、夜を更かした。その晩のうち、李源が気付かないほど静かに、逝った。三日後、李源は王家を訪れた。微笑みかけると、嬰児も笑った。李は王氏に顛末を話した。王氏は円沢を手厚く葬った。心虚ろとなった李は二日後、慧林寺に戻っていた。
 十二年後の仲秋月夜、円沢との約束に従って李は、杭州・天竺寺の前に立っていた。見回すと、円沢はいなかった。ただ、沢に円い月が映っていた。と、その畔で、牛に乗った牧童が、鞭で角を叩きつつ三峡地方特有の節回しで歌っていた。
 「三生石に昔の心が凝縮して宿っている。月を愛でよう、風に歌おう、小難しい話なんてしたくない。別れのきっかけつくった恋人が、後悔に胸を掻き毟りながら、遠い道を訪ねてくる。私は生まれ変わり、すっかり変わってしまったけれど、これからも、ずっと生きていく」。
 李と牧童は門の前で顔を合わせた。李の唇から、思わず言葉が迸り出た。「や、やあ、円沢」。牧童は応じた。
 「君は約束を守る誠実な人間だね。慧林寺ではいつも一緒にいたけれども、君と私は生きる道が違う。君の俗縁は、まだ尽きていない。でも、これから修行に打ち込めば、また私たちの会える時が来るよ」。
 あどけない少年に似合わぬ、老成した口振りだった。募った思いのたけを口にも出せず李は、ただ涙に暮れた。牧童/円沢は、牛の歩を進め、再び歌い始めた。
 「前世のことも来世のことも、はっきりとは分からない。人が生まれ変わるなんて教えたら、再び出会ったときの辛さを大きくするだけ。呉越の山々は、すべて見て回った。瞿唐峡、川を巡る舟の棹に、纏わり付く煙を私は見上げていた」。
 円沢は去っていった。遠ざかる歌声を聞きながら、李は立ち尽くしていた。
 これが高僧・円沢が死んだ渓谷に建つ三生石をめぐる物語である。

 ……しかし、どうだろうか。二つの話よりも、右衛門三郎の物語は、より明確に輪廻転生というものを表現しているように思える。右衛門三郎の生まれ変わりである息方は、石手寺の権現社を信仰し、神殿・拝殿を再建した。生まれたときに握っていた石を宝殿に納め、後世に伝えた。また、熊野十二所権現を勧請した。それまで安養寺と称していたが、このとき熊野山石手寺と改称したようだ。境内として山林を多く与え、花原郷を寄進して寺の維持費に充てた。建物は六十六宇を数えた。香の煙が立ちこめ、空の雲と連なるようだった。
 村上天皇の時代、天徳二年に令旨によって、阿闍梨位を継承するための秘儀・伝法灌頂を行うなど、重要な仏教拠点となっていた。記録に残っていることだが、表記が分かりにくいため、要点だけ記した。
 源頼義が北条親経【鎌倉幕府執権の北条氏ではなく伊豫土着の河野新太夫の別名と考えられる。河野氏が拠点とした風早郡は現在の愛媛県北条市あたり】に命じて、伽藍を再興した。
 永保二年の夏に大干害となり、勅命によって四国一円の降雨を祈った。褒賞として勅額を与えられ、住持の良寛は僧位を権僧都に進めた。
 寛治三年、堀河院が空海の御影を寺に与えた。北条親経に命じて、大師堂を建てさせた。
 永久二年、源頼義の末子・河野冠者親清が、堂宇の破損を修復した。
 治承元年、高倉院の勅命によって、唐から伝来した大般若経一部を与えられた。
 源頼朝から足利尊氏に至るまでの将軍家御教書が残っており、河野氏が修復したことも度々だが、特別なもののほかは一々記さない。
 元久元年三月三日、権現の祭礼を行った。十二社を仏教の立場で祀った。音楽を演奏し、威儀を整えた。河野四郎通信が月例の能を始めた【鎌倉幕府草創期に活躍した通信が、室町期前半に成立した「能」を行わせたとの記述には疑問がある。能のもとともなった、芸能を指すか】。
 弘安二年、河野対馬守通有が、三島明神を勧請した。本社・拝殿・十六王子祠を備え、九月二十六日に祭礼を執り行った。
 河野氏は、孝霊天皇の皇子で伊予に封じられた小千王から出たという。孝霊天皇の子供のうち誰のことかは分からない。河野氏は天正年間まで七十二代を相続して、石手寺も栄えた【孝霊天皇の子・狭島彦命/伊豫親王が海賊鎮圧のため下向し地元の海女と結ばれて三つ子をもうけた。三つ子は不吉であるとして、それぞれ船に乗せ海に流した。三番目の子供が小千/越智郡大浜に流れ着き、小千王と呼ばれ小千国造に任じられた。後に越智氏を名乗った。この越智氏から河野氏が分かれたとされている】。
 崇徳天皇が讃岐に流されたとき、お忍びで参詣したという。三月上旬のことだったらしい。歌が残っている。「名にし負はば又と来て見ん花の春 夕影残る雪の降る寺」。歌われた花は、車返しの桜と呼ばれた銘木であった。五十八九年前に枯れてしまい、それから出た檗が往事を偲ぶ縁となっている。
 霊宝には名高い物も多く、参詣したときに記録したもの総ては載せられない。
 橋の外に源朝義の石塔がある。
【奥付あるはずも欠】
             
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